
ヤギェウォ クレヴォの合同文書
ヤギェウォ(ヨガイラ、王在位1386〜1434)はクレヴォの合同文書で、自領のリトアニアとルーシをポーランド王国の王冠に永遠に「編入する」と記している。混乱していたリトアニア国家が解消されるとともに、ポーランドの東方進出への強い意欲がみられる。
合同の原因はドイツ騎士団の脅威とルーシ問題だった。ポーランドは唯一ヨーロッパに残る異教の人々を改宗させることで、この地域での影響力を確保でき、通商の拡大を望む都市からの支持もあった。一方、リトアニアのボヤール層(貴族・騎士)にとってはポーランドの貴族特権は魅力的だった。
即位後、ヤギェウォはヤドヴィガとともにリトアニアに戻り、同地の洗礼をおこなった。ジムジは1415〜17年。1387年にヴィルノに司教座がおかれたが、カトリックに改宗したリトアニアのボヤールが得た特権はまだ少なかった。またヴィルノにはドイツ法が与えられた。
合同の原因はドイツ騎士団の脅威とルーシ問題だった。ポーランドは唯一ヨーロッパに残る異教の人々を改宗させることで、この地域での影響力を確保でき、通商の拡大を望む都市からの支持もあった。一方、リトアニアのボヤール層(貴族・騎士)にとってはポーランドの貴族特権は魅力的だった。
即位後、ヤギェウォはヤドヴィガとともにリトアニアに戻り、同地の洗礼をおこなった。ジムジは1415〜17年。1387年にヴィルノに司教座がおかれたが、カトリックに改宗したリトアニアのボヤールが得た特権はまだ少なかった。またヴィルノにはドイツ法が与えられた。
ポーランドは1387年ハリチ公国に進軍し、自らの王冠のもとにおいた。リトアニアとの係争地だったヴォインと西ポドレはヤギェウォに託され、ヴォインの一部であるベウツ公国はマゾフシェ公に封土として与えられた。このときモルダヴィアも臣従している。
マゾフシェを取り込むことはドイツ騎士団との戦いのためだったが、合同にはリトアニアとルーシ諸国側に不満が残っていた。また合同の危険性を感じていたドイツ騎士団からの分離工作もあった。1389年にケーストゥティスの長男ヴィトルドが再び騎士団のもとに行き、ヴィルノ攻撃に参加した。上シロンスクのオポルチク公も騎士団にドブジンを抵当物件として差しだし、ポーランドの分割を図った。1392年、王と指導者たちはヴィトルドと妥協し、リトアニアの総督権を彼に与えた。(オストルフの合同)
1380年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
マゾフシェを取り込むことはドイツ騎士団との戦いのためだったが、合同にはリトアニアとルーシ諸国側に不満が残っていた。また合同の危険性を感じていたドイツ騎士団からの分離工作もあった。1389年にケーストゥティスの長男ヴィトルドが再び騎士団のもとに行き、ヴィルノ攻撃に参加した。上シロンスクのオポルチク公も騎士団にドブジンを抵当物件として差しだし、ポーランドの分割を図った。1392年、王と指導者たちはヴィトルドと妥協し、リトアニアの総督権を彼に与えた。(オストルフの合同)
1380年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
