
ヤドヴィガ 国王として戴冠
ルドヴィクの時代に助言機関だった国王評議会の地位が向上した。
また王がコシツェの集会をシュラフタ全体の意志を代表する場としてとらえることで、身分代表制が始まった。コシツェの特権では、国家が臨時税を必要とするとき、貴族身分全体の同意をその都度得る義務があり、身分制議会を招集する必要があった。
(コシツェの特権の具体的内容がわからないと理解が難しい)
ルドヴィクが死去したあと、ポーランドでは2年あまりの空位期があった。ポーランドでは集会が頻繁に開かれた。主導権を握っていたのは、マウォポルスカのマグナート(大領主)だったが、社団としてのシュラフタ(中小領主層)や都市の代表も加えて、「王国の全共同体」と称して、君主の選択と統治をおこなった。
また王がコシツェの集会をシュラフタ全体の意志を代表する場としてとらえることで、身分代表制が始まった。コシツェの特権では、国家が臨時税を必要とするとき、貴族身分全体の同意をその都度得る義務があり、身分制議会を招集する必要があった。
(コシツェの特権の具体的内容がわからないと理解が難しい)
ルドヴィクが死去したあと、ポーランドでは2年あまりの空位期があった。ポーランドでは集会が頻繁に開かれた。主導権を握っていたのは、マウォポルスカのマグナート(大領主)だったが、社団としてのシュラフタ(中小領主層)や都市の代表も加えて、「王国の全共同体」と称して、君主の選択と統治をおこなった。
君主にはルドヴィクの遺志に反して、ハンガリー王マリアではなく、末娘のヤドヴィガが指名された。1384年ヤドヴィガ(11歳、在位1384〜99)は国王として戴冠した。結婚相手に国王評議会が選んだのは、ヨーロッパで原始宗教を維持していたリトアニア大公国のヤギェウォだった。
1385年8月、ヤギェウォはクレヴォで、リトアニアの受洗、ポーランド王冠と大公国の合同を誓約した。翌年2月、ヤギェウォはヴワディスワフの洗礼名を得て、結婚式をおこない、王国の諸特権を確認して3月戴冠した。
1380年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1385年8月、ヤギェウォはクレヴォで、リトアニアの受洗、ポーランド王冠と大公国の合同を誓約した。翌年2月、ヤギェウォはヴワディスワフの洗礼名を得て、結婚式をおこない、王国の諸特権を確認して3月戴冠した。
1380年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史