
フィリップ豪胆公 ブルゴーニュ公国
1384年フランドル伯ルイが死去すると、ブルゴーニュ、フランシュ・コンテ 、二ヴェルネ、レテル、フランドル、アルトワをまとめた「キリスト教世界でもっとも裕福で、もっとも高貴である広大な伯領」が生まれた。
フランス王による強引な結婚政策によって誕生したブルゴーニュ公国はのちにフランス王家に敵対する強力な勢力となっていく。
低地地方の人々はブルゴーニュ家による統治で低地地方の一体化を期待した。ブルゴーニュ公国やフランシュ・コンテが「あちら側の国々」と呼ばれ、低地地方は「こちら側のわれわれの国々」と呼ばれ、君主の低地地方への常住が期待された。

公の財政基盤はフランドルだった。低地地方では権力が混乱していたとき、大都市のエシュヴァンが諮問機関を務め、内政をまとめていた。ブルッヘ、ヘント、イーペルが主導権を握り、ブルッヘ周辺のシャテルニーを加えたフランドルの「四者会議」が公と人々をつないでいた。
豪胆公はパリとブルゴーニュ公国に滞在し、低地地方の行政はマルグリートを摂政としておこなわれていた。
1398年「四者会議」の不満が爆発、公は「四者会議」の活動を抑制した。その一方で、財政・司法を統括する評議院をリルに恒常的に設置した。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1380年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1380年代
