
ワット・タイラの一揆
1381年5月、ロンドン周辺で人頭税徴収に抗議する活動の噂があった。5月末エセックスで調査員一行が暴行を受ける事件があり、評議会が鎮圧隊を向かわせるという噂が広まって、エセックスとロンドンの民衆に蜂起が呼びかけられた。6月一揆の指導者としてワット・タイラ、ジョン・ポールがあらわれ、ロチェスタ、カンタベリを占拠した一揆軍は12日、ロンドン近くのブラックヒースに集まり、国王リチャード2世はロンドン塔に避難した。13日ロンドンに入った一揆軍はスコットランド方面へ出かけていたランカスタ公のサヴォイ宮を攻撃、このときにジョン・ポールの「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族であったか」という演説があったとされる。(以前から他の説教者が語っていたとも伝えられる)
少年王と側近は有効な策をとれず、王が声明を発表し、要求をすべて受け入れるということで帰郷を促した。一揆の参加者たちは具体性のなさに失望し、翌日マイル・エンドでの会見を王に約束させた。一揆軍の要求は農奴制の廃止、一揆参加者への恩赦、取引・売買の自由、地代を1エーカー当り4ペンス以下とすることの4点。
1380年代
少年王と側近は有効な策をとれず、王が声明を発表し、要求をすべて受け入れるということで帰郷を促した。一揆の参加者たちは具体性のなさに失望し、翌日マイル・エンドでの会見を王に約束させた。一揆軍の要求は農奴制の廃止、一揆参加者への恩赦、取引・売買の自由、地代を1エーカー当り4ペンス以下とすることの4点。
1380年代
ほかに王への反逆者を処刑する許可を求めた。王の承諾を得た一揆軍は大司教や財務長官を処刑し、一部の参加者は帰郷した。
残った一揆軍は再度の会見を求め、15日スミスフィールドで、王にウィンチェスタ法のみを適用すること、誰にも法外措置宣告をおこなわないこと、領主権の廃止、教会財産を没収し民衆に分配することを要求した。王はすべての要求を受け入れると答えたが、ロンドン市長がタイラを徴発して殺した。一揆軍は四散し、中英部で起きた一揆も6月中におさまった。政府は巡回裁判をおこなって首謀者を処刑した。
この一揆の参加者には農民の他、手工業者、日雇い労働者、地主などもいた。都市での蜂起も起き、農奴制も一揆の前から14世紀末までに徐々に廃棄されている。ロンドン周辺の人頭税の脱税率は低く、住民の政治的関心は高かったため、自然発生的な蜂起だとされている。
封建的主従関係や身分制的人間関係で正当な地位を与えられていなかった農民や民衆が、直接国王と交渉できたことは評価される。
世界各国史11 イギリス史
残った一揆軍は再度の会見を求め、15日スミスフィールドで、王にウィンチェスタ法のみを適用すること、誰にも法外措置宣告をおこなわないこと、領主権の廃止、教会財産を没収し民衆に分配することを要求した。王はすべての要求を受け入れると答えたが、ロンドン市長がタイラを徴発して殺した。一揆軍は四散し、中英部で起きた一揆も6月中におさまった。政府は巡回裁判をおこなって首謀者を処刑した。
この一揆の参加者には農民の他、手工業者、日雇い労働者、地主などもいた。都市での蜂起も起き、農奴制も一揆の前から14世紀末までに徐々に廃棄されている。ロンドン周辺の人頭税の脱税率は低く、住民の政治的関心は高かったため、自然発生的な蜂起だとされている。
封建的主従関係や身分制的人間関係で正当な地位を与えられていなかった農民や民衆が、直接国王と交渉できたことは評価される。
世界各国史11 イギリス史