
コシツェの特権を発給
1374年、コシツェ(現在はスロヴァキア)で開かれた集会で、騎士・貴族身分全体を対象とした特権が発給された。所領全体に緩和された城砦修理義務と農民保有地への犂税(ポラドルネ)を除く、一切の国家への負担が免除された。犂税はルドヴィクの治世初期には毎年のように臨時税として、1ワン(ドイツ人植民・本百姓に与えられた耕地)につき6〜24グロシュ徴集されていたのが、恒常税に変更されて年2グロシュとされた。1381年には聖職身分も継承権の変更に同意、特権を得て、修道院領は年4グロシュとなった。
ハンガリー王を兼ねる王ルドヴィクとコシツェの特権は、ポーランドという国家の性格の変化をうながす契機となった。ウォキェテク(1320年)の時代には王国は君主の所有物だった。カジミエシ大王の時代になると「ポーランド王国王冠」という言葉が現れる。王冠によって象徴される身分制国家が,国家の権利をもつとされ、国家の権利と領土の不可分・不可譲渡性が重要だった。この時代、非ポーランド的な地域ルーシをポーランド国家の枠内に取り込むための概念が必要だったともされる。
ハンガリー王を兼ねる王ルドヴィクとコシツェの特権は、ポーランドという国家の性格の変化をうながす契機となった。ウォキェテク(1320年)の時代には王国は君主の所有物だった。カジミエシ大王の時代になると「ポーランド王国王冠」という言葉が現れる。王冠によって象徴される身分制国家が,国家の権利をもつとされ、国家の権利と領土の不可分・不可譲渡性が重要だった。この時代、非ポーランド的な地域ルーシをポーランド国家の枠内に取り込むための概念が必要だったともされる。
ルドヴィクの時代になると、戴冠式やコシツェの集会で領土の不可譲渡性が確認され、王の不在(ハンガリーに居住)によって王個人と国家の区別が意識されるようになった。この時代からポーランドは身分制国家としての性格をもち始めた。
カジミエシ大王の時代に、国内植民の拡大や法・裁判制度の改革がおこなわれて、身分制社会への進展がみられた。14世紀半ばには、恒常的な国家機関としての国王評議会が成立していた。大司教と司教、大臣、知事・城代(カシテラン)からなる中央と地方(14世紀末まではおもにマウォポルスカ)の高官を核とし、会議のたびに召集される下級地方官や無官の有力者によって構成される王の助言機関だった。下級の地方官が各地のシュラフタ(中小領主層)を代表するという性格を少しは持ってはいた。しかし、事実上の国策の決定は王とごく少数の有力な側近たちだけで決められていた。王がコシツェの集会をシュラフタ全体の意志を代表する場としてとらえることで、身分代表制が進められていった。
1370年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
カジミエシ大王の時代に、国内植民の拡大や法・裁判制度の改革がおこなわれて、身分制社会への進展がみられた。14世紀半ばには、恒常的な国家機関としての国王評議会が成立していた。大司教と司教、大臣、知事・城代(カシテラン)からなる中央と地方(14世紀末まではおもにマウォポルスカ)の高官を核とし、会議のたびに召集される下級地方官や無官の有力者によって構成される王の助言機関だった。下級の地方官が各地のシュラフタ(中小領主層)を代表するという性格を少しは持ってはいた。しかし、事実上の国策の決定は王とごく少数の有力な側近たちだけで決められていた。王がコシツェの集会をシュラフタ全体の意志を代表する場としてとらえることで、身分代表制が進められていった。
1370年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史