
シチリア王国
シチリアでは「晩禱戦争」の間、王領がつぎつぎに貴族に譲渡され、貴族の権力はナポリ王国と比べて強くなっていた。1342年、「暗愚王」ピエトロ2世の死後、幼児ルイージが即位した。摂政に前王の弟を推すアラゴン系貴族と、前王の寡婦を推す現地の貴族とが争ったが、両派は同化していった。1355年にルイージを継承した弟フェデリーコ3世(4世)は、貴族が扇動する反乱とそれに同調したナポリ王国軍の攻撃に苦しめられ、1372年、内政に努めようとするジョヴァンナ1世と和約を結んだ。教皇の宗主権下にあるジョヴァンナがフェデリーコの封主であり、フェデリーコのシチリア王国支配と娘マリーアの相続は承認するが、マリーアが後継者なしで死去した場合、アンジュー家がシチリア王国を相続する、という内容。シチリアがアンジュー家に帰属することを確認したフェデリーコは、以後「単純王」と呼ばれるが、1282年からの「晩禱戦争」は終わった。
1370年代
世界各国史15 イタリア史
1370年代
世界各国史15 イタリア史
1377年、単純王を父、アラゴン国王ペドロ4世の娘を母にする、15歳のマリーアが即位した。すると祖父ペドロがシチリア王位を要求してきた。マリーアの摂政は要求に反対する有力貴族と協議して、シチリアを4つの地域に分けて、貴族4人が地域総督になり、マリーアの名のもとに王国を分割統治することにした。
この決定に不満な貴族とペドロは、マリーアをアラゴンに連行し、ペドロの息子(老)マルティンの同名の息子(若)マルティンと結婚させた。1387年、ペドロが死去、息子フアンがアラゴン国王に即位した。
シチリアの総督体制は相次ぐ地域総督の死去で弱化していた。1391年、両マルティンとマリーアはシチリアに上陸した。1401年マリーアが死去し、単独王となったマルティン1世(若マルティン)は貴族を抑圧して、ある程度王権を回復した。
1396年、兄フアンの死後、アラゴン国王になっていた老マルティンは、1409年の若マルティンの死後、シチリア国王(マルティン2世)を兼位したが、翌10年に死去、アラゴン(バルセロナ)朝は断絶し、国王空位期にシチリアの秩序は再度混乱した。
この決定に不満な貴族とペドロは、マリーアをアラゴンに連行し、ペドロの息子(老)マルティンの同名の息子(若)マルティンと結婚させた。1387年、ペドロが死去、息子フアンがアラゴン国王に即位した。
シチリアの総督体制は相次ぐ地域総督の死去で弱化していた。1391年、両マルティンとマリーアはシチリアに上陸した。1401年マリーアが死去し、単独王となったマルティン1世(若マルティン)は貴族を抑圧して、ある程度王権を回復した。
1396年、兄フアンの死後、アラゴン国王になっていた老マルティンは、1409年の若マルティンの死後、シチリア国王(マルティン2世)を兼位したが、翌10年に死去、アラゴン(バルセロナ)朝は断絶し、国王空位期にシチリアの秩序は再度混乱した。