
ドミートリー モスクワ公に即位
イヴァン・カリターの息子セミョンとイヴァン2世を経て、1359年イヴァン2世の息子ドミートリー(9才)がモスクワ公に即位した。対立する二人のハンからニジェゴロド・スーズダリも大公位への勅許状を得ていたが、府主教アレクシーと貴族層の支持・団結もあって、1362年ドミートリーが大公位に就いた。トヴェーリもリトアニアの助力を得て一時は勅許状を得たが、モスクワの軍門に屈し、1375年の条約でトヴェーリ公はモスクワ大公の「弟」とされ対等の国ではなくなった。またウラジーミル大公国はモスクワの「世襲地」とされ、大公位はハンではなく、ルーシで決定する方向へ向かった。
1360年代、ハン国は内紛で実質的支配者は軍事指導者ママイだった。モスクワは1374年頃にはハン国への貢納支払いを停止し、78年にはタタール軍を破っていた。1380年ママイ率いる大軍とドン川ほとりのクリコヴォで戦うことになった。モスクワがかろうじて勝利し、ドミートリーはドンスコイ(ドン川の)と称えられた。
1350年代
世界各国史22 ロシア史
1360年代、ハン国は内紛で実質的支配者は軍事指導者ママイだった。モスクワは1374年頃にはハン国への貢納支払いを停止し、78年にはタタール軍を破っていた。1380年ママイ率いる大軍とドン川ほとりのクリコヴォで戦うことになった。モスクワがかろうじて勝利し、ドミートリーはドンスコイ(ドン川の)と称えられた。
1350年代
世界各国史22 ロシア史
1382年、モスクワは支配権を回復したハン、トクタムィシに急襲され再びハン国に支配されることになった。しかしクリコヴォの勝利は、タタールの支配を覆えせるという希望を持たせ、モスクワの威信を高め、大公に独立闘争と国家統一の指導的地位を与えることになった。1389年の遺言状でドミートリーは、ハン国でなにか事が起きたら、貢納支払いを停止するように指示し、ウラジーミル大公国をハンの意向を問わずに、モスクワの世襲地として長子ヴァシリーに与えている。
ヴァシリー1世の時代(〜1425)、ニジェゴロド公国の支配権を得て、ムーロムやヴォログダも領土に加えた。ノヴゴロドにも圧力を加え、毛皮産地ドヴィナ地方を占領している。ヴァシリーはトクタムィシに即位の承認を求めていたが、1408年にはエディゲイ軍に侵攻されている。リトアニアの支配者はヤギェウォの従兄弟ヴィタウタスだったが、スモレンスクを征服し、東スラヴ諸公の自立性を奪っていた。ヴァシリーはヴィタウタスの娘と結婚していたためこれを容認した。ヴィタウタスがプスコフ・ノヴゴロドに進出しようとしたときは、反抗して兵を進めたが、息子ヴァシリー2世を妻の後見に委ねるなど、義父の影響から抜け出せなかった。
ヴァシリー1世の時代(〜1425)、ニジェゴロド公国の支配権を得て、ムーロムやヴォログダも領土に加えた。ノヴゴロドにも圧力を加え、毛皮産地ドヴィナ地方を占領している。ヴァシリーはトクタムィシに即位の承認を求めていたが、1408年にはエディゲイ軍に侵攻されている。リトアニアの支配者はヤギェウォの従兄弟ヴィタウタスだったが、スモレンスクを征服し、東スラヴ諸公の自立性を奪っていた。ヴァシリーはヴィタウタスの娘と結婚していたためこれを容認した。ヴィタウタスがプスコフ・ノヴゴロドに進出しようとしたときは、反抗して兵を進めたが、息子ヴァシリー2世を妻の後見に委ねるなど、義父の影響から抜け出せなかった。