
ジャックリーとエチエンヌ・マルセルの反乱
ペストによる多くの犠牲者がでたことで、荒れた耕地が広がり、廃村もみられた。人口が減って穀物価格は下落したが、職人も少なくなって手工業製品の価格は上昇した。農業労働者の賃金は高騰し、経済史では賃労働者の黄金時代と呼ばれるようになった。1350年、賃金を抑制するための王令が出されたが、王領地だけに適用される限定的なものだった。
農民にとって好ましい状況に思えるが、とくに下層の農民は国王租税が重くなったことで相殺されてしまった。さらに労働力確保のために、移動禁止の措置がとられたことで、農民たちは追い込まれていった。
盗賊騎士とともに、ノルマンディの「白頭巾」、ブルゴーニュの「貝殻団(コキヤール)」、イル・ド・フランスの「カイマン」などの盗賊集団が人々を恐れさせた。悪化した治安や流言飛語が農民の反乱を引き起こした。1358年にボーヴェで起こったジャックリーの乱は、ノルマンディ、ピカルディなどに広まった。農民たちのスローガンは「すべての旦那衆を打ち倒せ!」で、領主は殺され、女たちは凌辱され、子供たちは串刺しにされ丸焼きにされたという。
農民にとって好ましい状況に思えるが、とくに下層の農民は国王租税が重くなったことで相殺されてしまった。さらに労働力確保のために、移動禁止の措置がとられたことで、農民たちは追い込まれていった。
盗賊騎士とともに、ノルマンディの「白頭巾」、ブルゴーニュの「貝殻団(コキヤール)」、イル・ド・フランスの「カイマン」などの盗賊集団が人々を恐れさせた。悪化した治安や流言飛語が農民の反乱を引き起こした。1358年にボーヴェで起こったジャックリーの乱は、ノルマンディ、ピカルディなどに広まった。農民たちのスローガンは「すべての旦那衆を打ち倒せ!」で、領主は殺され、女たちは凌辱され、子供たちは串刺しにされ丸焼きにされたという。
パリ商工会議所会頭エチエンヌ・マルセルによる政治と社会の歪みを正し、国家組織の改革をめざす動きもあった。
1356年、ポワトゥーで国王ジャン2世(在位1350〜64)が、イングランド王の息子で、ウェールズ大公黒太子に敗れ、捕虜としてロンドンに送られた。
国王不在の間、国政を取り仕切ることになった王太子シャルルは三部会を召集し、戦費調達のための課税を承認させようとした。エチエンヌ・マルセルは、これに反対の論陣を張り、国政の大改革を王太子に建議した。国王顧問会議の廃止と行政・司法機構の改革が焦点だった。三部会は国王の召集によらずに開催され、租税の徴収は国王役人ではなく、三部会が任命した徴税人に委ねられるなど。
エチエンヌ・マルセルは自らの決意を王太子に示すため、その面前で二人の国王顧問を殺害した。この過激な行為によって、パリのブルジョワや彼に理解を示していた改革派貴族が離れていき、暗殺者の手にかかって改革は挫折した。
1350年代
世界各国史12フランス史
1356年、ポワトゥーで国王ジャン2世(在位1350〜64)が、イングランド王の息子で、ウェールズ大公黒太子に敗れ、捕虜としてロンドンに送られた。
国王不在の間、国政を取り仕切ることになった王太子シャルルは三部会を召集し、戦費調達のための課税を承認させようとした。エチエンヌ・マルセルは、これに反対の論陣を張り、国政の大改革を王太子に建議した。国王顧問会議の廃止と行政・司法機構の改革が焦点だった。三部会は国王の召集によらずに開催され、租税の徴収は国王役人ではなく、三部会が任命した徴税人に委ねられるなど。
エチエンヌ・マルセルは自らの決意を王太子に示すため、その面前で二人の国王顧問を殺害した。この過激な行為によって、パリのブルジョワや彼に理解を示していた改革派貴族が離れていき、暗殺者の手にかかって改革は挫折した。
1350年代
世界各国史12フランス史