
カジミエシ3世 統一王国の基礎
1356年、ドイツ法関係では各自治法廷での判決の一様性を保つために、上級裁判所がクラクフの王城内に設けられた。50年代末にはヴィエルコポルスカ、マウォポルスカに貴族身分に関する法が公布された。前者は在地の慣習法の編纂だったが、後者には新しい規定が多く、貴族身分に関する「ジェムスキエ法」の全国統一に向けての準備だとされる。ユダヤ人には全国で効力を持つ特許状が発給され、ボフニャとヴィエリチカには岩塩鉱法が公布された。貨幣改革もおこなわれ、プラハのグロシュ銀貨に範をえたクラクフ・グロシュが発行され、王国の貨幣制度をつくろうとした。また1364年には、教皇庁から法学系のクラクフ大学の設立許可がおりている。
1350年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1350年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
行政では、国王の警護と宮廷の管理を担当する「区内長官」職が設けられ、1360年代には国家の尚書部がつくられて、中央官職の原型が形作られた。地方では、マウォポルスカにもほかの地方とは異なるが代官が置かれ始めた。1364年にはクラクフで国際会議が開かれ、皇帝と中欧のほぼすべての君主が参加した。領土も西ヴォインとポドレの一部に宗主権を確立し、北のブランデンブルク新辺境伯領での成果で王国と西ポモージェが陸路でつながった。
大王の死で貨幣改革やクラクフ大学は頓挫した。統一法は治世中には完成しなかったが、14世紀末頃にはカジミエシ法典として意識され、18世紀末まで統一法典の代替物として用いられた。1400年にはクラクフ大学も再建された。
カジミエシ3世は統一王国の基礎を築いた王で、15世紀の年代記には「カジミエシは土と木のみすぼらしいポーランドを煉瓦のポーランドに変えて世を去った」と記されている。
大王の死で貨幣改革やクラクフ大学は頓挫した。統一法は治世中には完成しなかったが、14世紀末頃にはカジミエシ法典として意識され、18世紀末まで統一法典の代替物として用いられた。1400年にはクラクフ大学も再建された。
カジミエシ3世は統一王国の基礎を築いた王で、15世紀の年代記には「カジミエシは土と木のみすぼらしいポーランドを煉瓦のポーランドに変えて世を去った」と記されている。
