
ドゥシャン法典
ステファン・ドゥシャンは優れた戦略と外交で領域を拡大し、中世セルビア王国の最盛期を築いた。セルビアの繁栄は、ドイツ人鉱夫による銀、鉄、鉛などの鉱業と交易によるものだった。セルビアの銀貨は、国際通貨としてイタリア諸都市との貿易に使われた。
ドゥシャンはビザンツ帝国の内乱に乗じて、テッサロニキを除くマケドニア、テッサリア、イピロスを奪ってバルカン半島の西半分を手中にし、ブルガリアにもセルビアの主権を認めさせた。1346年には自ら昇格させたセルビア総主教から「セルビア人とギリシア人の皇帝」として戴冠された。
1340年代
世界各国史18 バルカン史
ドゥシャンはビザンツ帝国の内乱に乗じて、テッサロニキを除くマケドニア、テッサリア、イピロスを奪ってバルカン半島の西半分を手中にし、ブルガリアにもセルビアの主権を認めさせた。1346年には自ら昇格させたセルビア総主教から「セルビア人とギリシア人の皇帝」として戴冠された。
1340年代
世界各国史18 バルカン史
1349年に聖俗諸侯からなる会議を召集し、「ドゥシャン法典」と呼ばれる「ザコニク(法典)」を制定した。国内での法的秩序の確立と封建的特権の擁護を意図したもので、ビザンツ法とセルビアの慣習法を融合したものだった。封建領主は皇帝から支給される条件保有地と世襲地の所有を法的に認められ、王権を支えていった。
ビザンツ帝国はセルビアの脅威を受けて、オスマン帝国の援助でしのごうとした。しかし、それはトルコ人にヨーロッパ進出の機会を与えることになった。ドゥシャンはコンスタンティノープル征服をめざしていたが、1355年、47歳で急死した。後継者のウロシュ5世は若く、政治・軍事の才に欠けていた。王族や地方領主が各地で公国を建てるようになった。
ビザンツ帝国はセルビアの脅威を受けて、オスマン帝国の援助でしのごうとした。しかし、それはトルコ人にヨーロッパ進出の機会を与えることになった。ドゥシャンはコンスタンティノープル征服をめざしていたが、1355年、47歳で急死した。後継者のウロシュ5世は若く、政治・軍事の才に欠けていた。王族や地方領主が各地で公国を建てるようになった。
