
コーラ・ディ・リエンツォ 事実上のシニョーレになる
教皇領は、教皇が自ら支配したが、支配の実態は都市ローマ、ローマ周辺(ラツィオ)、その他(ウンブリア、マルケ、ロマーニャ)に分けられる。都市ローマは1309年の教皇のアヴィニョン捕囚によって、経済の衰退と秩序の混乱がみられ、市民の自治が現れた。
ローマの居酒屋の息子コーラ・ディ・リエンツォは公証人になったが、古代ローマに憧れ、自らを皇帝ハインリヒ7世の落胤とみなす夢想家だった。1342年にローマの住民代表の一人としてアヴィニョンに行き、教皇にローマ帰還を求め、43年には庶民代表として、教皇不在による貴族の横暴と経済の衰退を訴えた。教皇からローマの都市官職を与えられ、帰国後は庶民の反貴族感情の代弁者になった。
1340年代
ローマの居酒屋の息子コーラ・ディ・リエンツォは公証人になったが、古代ローマに憧れ、自らを皇帝ハインリヒ7世の落胤とみなす夢想家だった。1342年にローマの住民代表の一人としてアヴィニョンに行き、教皇にローマ帰還を求め、43年には庶民代表として、教皇不在による貴族の横暴と経済の衰退を訴えた。教皇からローマの都市官職を与えられ、帰国後は庶民の反貴族感情の代弁者になった。
1340年代
1347年、都市評議会を召集し、護民官などの称号をえて、事実上のシニョーレになった。平和と安全のための会議を呼びかけ、25都市の代表が集まったことで有頂天になり、ローマ市民の世界支配権などを宣言した。疑念を持った教皇が彼から離れ、教皇特使は貴族と結んでローマから追放した。皇帝を説得しようとプラハへ向かったが、異端の名目で投獄され、さらに教皇の牢獄に送られた後、教皇国家の再建に利用するために釈放された。教皇から元老院議員という名称のローマ執政官に任命されて、1354年、ローマに戻ったが、誇大妄想の言動で人心を失い、約2ヵ月後、反乱を起こしたローマ市民によって処刑された。政治秩序が混乱したローマでの、住民自治のある程度の発展はみられる。
世界各国史15 イタリア史
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