
ドゥシャン王 セルビア人とローマ人の皇帝
ギリシアの混乱を機会にセルビアのステファン・ドゥシャン王(在位1331〜55)は、テッサロニキを除くテッサリア、マケドニア全域を併合し、正教の聖地アトス山も支配下においた。1346年には「セルビア人とローマ人の皇帝」と称し、48年にはエペイロスも征服した。バルカン半島西部を統一したドゥシャン王は、コンスタンティノープル征服まで計画していたが、1355年12月に急死して、セルビア帝国は崩壊した。
ビザンツ帝国に領土を奪回する力は残されていなかった。エペイロスも、もとの専制公ニケフォロス2世がテッサリア、エペイロスをおさえて、専制公と称したが1359年にアルバニア人との戦いに敗れた。ミカエル1世の血統が途絶えたエペイロスでは、セルビア人、アルバニア人、イタリア人の専制公が互いに争うようになった。アテネ公国のカタロニア軍も弱体化していた。アカイア公からコリントスを封土として得ていたフィレンツェのアッチャイウォーリ家のネリオは、アテネ公国征服に取りかかり、1385年にアテネが陥落、3年後に残っていた軍団も降伏した。アテネ公国はギリシア的になり、十字軍の後廃止されていた、正教のアテネ大主教座も復活した。
1340年代
世界各国史17 ギリシア史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
オスマン征服前夜のバルカン半島 1360年 部分
ビザンツ帝国に領土を奪回する力は残されていなかった。エペイロスも、もとの専制公ニケフォロス2世がテッサリア、エペイロスをおさえて、専制公と称したが1359年にアルバニア人との戦いに敗れた。ミカエル1世の血統が途絶えたエペイロスでは、セルビア人、アルバニア人、イタリア人の専制公が互いに争うようになった。アテネ公国のカタロニア軍も弱体化していた。アカイア公からコリントスを封土として得ていたフィレンツェのアッチャイウォーリ家のネリオは、アテネ公国征服に取りかかり、1385年にアテネが陥落、3年後に残っていた軍団も降伏した。アテネ公国はギリシア的になり、十字軍の後廃止されていた、正教のアテネ大主教座も復活した。
1340年代
世界各国史17 ギリシア史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
オスマン征服前夜のバルカン半島 1360年 部分
