
フランドル伯ルイ・ド・マール
フランス王フィリップ4世(在位1285〜1314)はフランドルの直接支配を狙って、ヘントに代理人を置きフランドル伯ギィ・ド・ダンピエールを監視、パリの高等法院への上訴権や課税を通して支配力を強めていった。
フランドル伯はその娘とイギリス王家との結婚を通してイギリスとの協調関係を図ったがフランスの介入で失敗、パリの高等法院に召喚されイギリスとの通商停止を強いられた。フランス王はフランス産羊毛での埋め合わせを提案すると同時にフランドルの5大都市(イーベル、ヘント、ドゥエ、リル、ブルッヘ)をその保護下においた。
フィリップ4世の強圧的姿勢はフランドルをイギリスとの同盟へと向かわせた。1296年フランドル伯は高等法院への召喚を忌避、1297年1月フランス王との封建関係を破棄して、イギリス王エドワード1世と同盟を結んだ。しかしその後フランドルはフランスとの戦争に敗れ、伯は捕らえられフランドルはフランスに併合された。
この頃フランドルでは都市貴族に対する民衆の敵意と都市貴族による寡頭政治を抑えようとするフランドル伯の利害が一致、フランドル伯を支持する手工業者の獅子爪党とフランス王と結んだ都市貴族の百合党との戦いとなっていた。
1302年5月 ブルッヘでフランス軍を虐殺(早朝祈禱事件)
1302年7月 クールトレ(コルトレイク)でフランス軍重装騎兵隊を殲滅(黄金の拍車の闘い)
リエージュとウイでは司教と結んだ手工業者が市政を掌握した。
しかしフランドル伯は都市の権力拡大を危惧、フランス王や一部の都市貴族に接近して手工業者から離反、手工業者内部の権力争いもあって、1305年フランス王とフランドル新伯ロベール・ド・ベテューン(在位1305〜22)の間でアティス・シュル・オルジェの和平が締結された。 新伯には多大な賠償金と主要都市の市壁の破壊が課され、協定履行の担保としてリル、ドゥエ、ベテューン、カッセル、クールトレが押さえられた。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1340年代
フランドル伯はその娘とイギリス王家との結婚を通してイギリスとの協調関係を図ったがフランスの介入で失敗、パリの高等法院に召喚されイギリスとの通商停止を強いられた。フランス王はフランス産羊毛での埋め合わせを提案すると同時にフランドルの5大都市(イーベル、ヘント、ドゥエ、リル、ブルッヘ)をその保護下においた。
フィリップ4世の強圧的姿勢はフランドルをイギリスとの同盟へと向かわせた。1296年フランドル伯は高等法院への召喚を忌避、1297年1月フランス王との封建関係を破棄して、イギリス王エドワード1世と同盟を結んだ。しかしその後フランドルはフランスとの戦争に敗れ、伯は捕らえられフランドルはフランスに併合された。
この頃フランドルでは都市貴族に対する民衆の敵意と都市貴族による寡頭政治を抑えようとするフランドル伯の利害が一致、フランドル伯を支持する手工業者の獅子爪党とフランス王と結んだ都市貴族の百合党との戦いとなっていた。
1302年5月 ブルッヘでフランス軍を虐殺(早朝祈禱事件)
1302年7月 クールトレ(コルトレイク)でフランス軍重装騎兵隊を殲滅(黄金の拍車の闘い)
リエージュとウイでは司教と結んだ手工業者が市政を掌握した。
しかしフランドル伯は都市の権力拡大を危惧、フランス王や一部の都市貴族に接近して手工業者から離反、手工業者内部の権力争いもあって、1305年フランス王とフランドル新伯ロベール・ド・ベテューン(在位1305〜22)の間でアティス・シュル・オルジェの和平が締結された。 新伯には多大な賠償金と主要都市の市壁の破壊が課され、協定履行の担保としてリル、ドゥエ、ベテューン、カッセル、クールトレが押さえられた。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1340年代
さらに1312年のポントワーズの協定でリル、ドゥエ、ベテューン(1323年にオルシに変更)が譲渡された。
しかし1302年の勝利は低地地方の地方自立主義を盛り上げ、フランドルの歴史の象徴となった。
百年戦争が始まるとフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェール(在位1322〜46)はフランス王への忠誠を保ち、イギリスとの通商を断った。そのためフランドルは経済危機に陥った。1337年ヘントの富裕な商人ヤーコプ・ファン・アルテフェルデは商人・職人の支持を受け、ヘント、ブルッヘ、イーベル(フランドルの三者)の同盟を組織、ブラーバンド、エノーの諸都市に呼び掛け、イギリス王エドワード3世と結んだ。ヤーコプはフランドル伯がフランスへ亡命した後フランドルの行政を掌握した。しかしその強引な親英政策への反感が強くなり、ギルド間の抗争もあって1345年7月、ヤーコプは暗殺され、伯は権力を回復した。
1346年フランドル伯はクレシィの戦いで戦死、後をルイ・ド・マール(在位1346〜84)が継いだ。1382年にはヤーコプの息子フィリップに主導されたヘントを中心とする手工業者の軍をフランス王の支援を受けて制圧した。
このルイ・ド・マールの治世でフランドルはフランスからの自立を追求し、中央行政機構の整備を進めた。フランドル伯は英仏両王に中立的な対応を見せながら、婚姻政策による領土の拡大を図った。初めはイギリスとの友好関係を維持、1348年にはイギリスと和平協定を結んだ。1350年フランス王ジャン2世が即位すると、イギリスとの同盟をちらつかせながらリル、ドゥエ、オルシの回復を狙った。
低地地方でブラーバンド公ヤン3世が死去すると、後継者ヨハンナ(在位1355〜1406)と夫ルクセンブルク公ヴェンツェルにメヘレンの割譲を求めるとともに、スヘルデ川の掌握を企てた。そしてブラーバンドとの戦争に勝利、メヘレンとアントウェルペンを手に入れた。
ルイ・ド・マールの領域国家統治政策は低地地方の統一を準備するものだったが、それをなしとげたのはブルゴーニュ公国の支配下においてだった。
しかし1302年の勝利は低地地方の地方自立主義を盛り上げ、フランドルの歴史の象徴となった。
百年戦争が始まるとフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェール(在位1322〜46)はフランス王への忠誠を保ち、イギリスとの通商を断った。そのためフランドルは経済危機に陥った。1337年ヘントの富裕な商人ヤーコプ・ファン・アルテフェルデは商人・職人の支持を受け、ヘント、ブルッヘ、イーベル(フランドルの三者)の同盟を組織、ブラーバンド、エノーの諸都市に呼び掛け、イギリス王エドワード3世と結んだ。ヤーコプはフランドル伯がフランスへ亡命した後フランドルの行政を掌握した。しかしその強引な親英政策への反感が強くなり、ギルド間の抗争もあって1345年7月、ヤーコプは暗殺され、伯は権力を回復した。
1346年フランドル伯はクレシィの戦いで戦死、後をルイ・ド・マール(在位1346〜84)が継いだ。1382年にはヤーコプの息子フィリップに主導されたヘントを中心とする手工業者の軍をフランス王の支援を受けて制圧した。
このルイ・ド・マールの治世でフランドルはフランスからの自立を追求し、中央行政機構の整備を進めた。フランドル伯は英仏両王に中立的な対応を見せながら、婚姻政策による領土の拡大を図った。初めはイギリスとの友好関係を維持、1348年にはイギリスと和平協定を結んだ。1350年フランス王ジャン2世が即位すると、イギリスとの同盟をちらつかせながらリル、ドゥエ、オルシの回復を狙った。
低地地方でブラーバンド公ヤン3世が死去すると、後継者ヨハンナ(在位1355〜1406)と夫ルクセンブルク公ヴェンツェルにメヘレンの割譲を求めるとともに、スヘルデ川の掌握を企てた。そしてブラーバンドとの戦争に勝利、メヘレンとアントウェルペンを手に入れた。
ルイ・ド・マールの領域国家統治政策は低地地方の統一を準備するものだったが、それをなしとげたのはブルゴーニュ公国の支配下においてだった。