
エペイロス専制公国 ビザンツ帝国に併合される
13世紀末から14世紀前半、ビザンツ帝国のギリシア地域での領土回復が進んだ。エペイロス専制公国は名目上ビザンツ皇帝に服しつつ、イタリアとの関係を深めていた。1318年、イタリアのオルシニ家(ケファロニア伯)がエペイロスの専制公位を継承した際の混乱に乗じて、ビザンツはヨハニナの町を手に入れた。
内乱のためにビザンツの再征服が中断した後、アンドロニコス3世(在位1328〜41)の時代に、大土地所有貴族(ヨハネス・カンタクゼノスなど)の支持を得て再開された。1335年頃に全テッサリアを制圧し、エペイロスにも勢力を広げた。1336・37年のヨハネス2世オルシニの死後、1340年にビザンツ軍は都アルタを攻略した。エペイロスはビザンツ帝国に併合され、ヨハネス2世の息子ニケフォロス2世(母方は初代の専制公ミカエル1世)は専制公の称号を返上して、ビザンツ帝国の爵位を与えられた。
地図 ヨーロッパ歴史地図 原書房 1328年 部分
内乱のためにビザンツの再征服が中断した後、アンドロニコス3世(在位1328〜41)の時代に、大土地所有貴族(ヨハネス・カンタクゼノスなど)の支持を得て再開された。1335年頃に全テッサリアを制圧し、エペイロスにも勢力を広げた。1336・37年のヨハネス2世オルシニの死後、1340年にビザンツ軍は都アルタを攻略した。エペイロスはビザンツ帝国に併合され、ヨハネス2世の息子ニケフォロス2世(母方は初代の専制公ミカエル1世)は専制公の称号を返上して、ビザンツ帝国の爵位を与えられた。
地図 ヨーロッパ歴史地図 原書房 1328年 部分
ビザンツ帝国は北中部ギリシア(マケドニア、テッサリア、エペイロス)を支配下に置き、アカイア公国の諸侯もビザンツ帝国の宗主権を認めるようになっていた。アテネ公国のカタロニア人を除いて、ほぼ現在のギリシア共和国と同じ版図を得ていた。ギリシア古典文化への関心も高まり、ビザンツ人にもギリシア人意識が広がってきていた。
1341年、幼帝ヨハネス5世パライオロゴス(在位1341〜91)が即位すると、政変が起き、帝国政治を主導していたカンタクゼノスは追放された。カンタクゼノスは各地の貴族とともに反乱を起こし大混乱になった。テッサロニキでは熱心党と呼ばれる市民集団が、貴族を追放して市民の政権を樹立した。この混乱に乗じたのがセルビアのステファン・ドゥシャン王だった。
1340年代
世界各国史17 ギリシア史
1341年、幼帝ヨハネス5世パライオロゴス(在位1341〜91)が即位すると、政変が起き、帝国政治を主導していたカンタクゼノスは追放された。カンタクゼノスは各地の貴族とともに反乱を起こし大混乱になった。テッサロニキでは熱心党と呼ばれる市民集団が、貴族を追放して市民の政権を樹立した。この混乱に乗じたのがセルビアのステファン・ドゥシャン王だった。
1340年代
世界各国史17 ギリシア史
