
黒死病 ペスト イギリス
1347年地中海東部から腺ペストとされる疫病が、ヨーロッパに広まった。1348年初めには南イタリア、フランスの港町に達して、エドワード3世の娘ジョーンもカスティリャへ嫁ぐ旅の途中で罹患、死去した。8月にはイングランド南部に上陸、11月にロンドン、翌年春にはイースト・アングリア、年末にはランカシァ(リバプールの北)へ広がった。1349年にはアイルランドに到達、1350年にはスコットランドでも多くの犠牲者をだした。
人口の30〜50%を失う地域もあり、犠牲者は農民とその子供、下級聖職者に多く、諸侯には少なかった。1361年、69年、74年にも流行した。
1340年代 ペスト大流行
世界各国史11 イギリス史
人口の30〜50%を失う地域もあり、犠牲者は農民とその子供、下級聖職者に多く、諸侯には少なかった。1361年、69年、74年にも流行した。
1340年代 ペスト大流行
世界各国史11 イギリス史
耕作者を失った耕地が増え、領主は直営地経営のために労働者を雇うようになった。労働力不足から賃金が約18%上昇し、食品価格も一時的に下がったが、1370年代まで上がり続けた。労働力を持つ農民は耕作者を失った耕地を譲り受け、農民が領主に支払う地代は下落した。1363年、一部の豊かになった農業者が奢侈品を購入することを規制した奢侈禁止法がだされた。
1351年、議会は労働者規制法を制定して、労働者の賃金をペスト前の水準に止め、違反者を処罰する労働者判事の設置を決めたが、その効果は限られていた。労働者判事に任命されたのは村の地主、ジェントリ、エスクワィア(騎士の従者)が多かった。彼らは農民に不払い労働を強制したり、労働者を低賃金で働かせる法的根拠を得たが、農民や労働者は規制を守ろうとせず、1360年代になると逆に対領主関係の変更を求めるようになった。
1351年、議会は労働者規制法を制定して、労働者の賃金をペスト前の水準に止め、違反者を処罰する労働者判事の設置を決めたが、その効果は限られていた。労働者判事に任命されたのは村の地主、ジェントリ、エスクワィア(騎士の従者)が多かった。彼らは農民に不払い労働を強制したり、労働者を低賃金で働かせる法的根拠を得たが、農民や労働者は規制を守ろうとせず、1360年代になると逆に対領主関係の変更を求めるようになった。