
マグヌス・エーリクソン デンマーク領のスコーネとブレーキンゲを「購入」
1332年、スウェーデン王として親政を始めたマグヌス・エーリクソンは、デンマーク領のスコーネとその東のブレーキンゲを「購入」した。スコーネとブレーキンゲは1330年から北ドイツのホルシュタイン伯を質地領主としていた。質地からの収入は質権者に入るが、デンマーク王国の一部のままで、貴族を含む住民はデンマークの法(スコーネ法)に従って生活していた。
しかしドイツ人代官によるスコーネ法を無視した支配に住民の不満が強まり、1332年ルンド大司教などのスコーネ諸身分の代表は、スウェーデン王マグヌス・エーリクソンと交渉した。スコーネ市場の混乱を怖れたリューベックの仲介で、2州の質権はスウェーデン王に買い取られることになった。条件はスコーネの法によって統治されること、スウェーデンに統合されるのではなくデンマーク王に「買い戻し権」が認められること。マグヌスはこれを了承し、購入後の称号は「スウェーデン王にしてスコーネの王」になった。シェラン島各地も買収している。
1330年代以前
世界各国史21 北欧史
しかしドイツ人代官によるスコーネ法を無視した支配に住民の不満が強まり、1332年ルンド大司教などのスコーネ諸身分の代表は、スウェーデン王マグヌス・エーリクソンと交渉した。スコーネ市場の混乱を怖れたリューベックの仲介で、2州の質権はスウェーデン王に買い取られることになった。条件はスコーネの法によって統治されること、スウェーデンに統合されるのではなくデンマーク王に「買い戻し権」が認められること。マグヌスはこれを了承し、購入後の称号は「スウェーデン王にしてスコーネの王」になった。シェラン島各地も買収している。
1330年代以前
世界各国史21 北欧史
マグヌスのスコーネ購入は、ニシン漁とスコーネの市にかかわっていた。またこれによってスウェーデンは北海への出口を得ることができた。1340年代後半から50年代初めにかけてノヴゴロド方面への軍事行動もおこなっていて、バルト海全域の商業権支配をめざしていたらしい。
しかし、マグヌス王はスコーネ購入費の支払いに苦しんでいた。親政以前に王国の各地や租税徴収権が質入れされていて、税収が少なく、ペストによって農民も減少していた。農民に臨時税を課すと、農民は不穏になり、土地を貴族に売る農民も増えた。スコーネの漁と市への関税を強化したが、商業を圧迫し、ハンザ同盟との緊張が高まった。軍役と引き替え以外の貴族免税特権の撤回を試み、1352年には教会課税をおこなうと、国中に反乱が広まった。1356年には参事会貴族(世俗大貴族と司教)がマグヌス王に反対して、王太子エーリックをスウェーデンとスコーネの王位に就けたが、1359年にエーリックは急死した。マグヌス王が復帰した後、1363年に参事会貴族はメクレンブルク家のアルプレヒト3世を王に招致した。
しかし、マグヌス王はスコーネ購入費の支払いに苦しんでいた。親政以前に王国の各地や租税徴収権が質入れされていて、税収が少なく、ペストによって農民も減少していた。農民に臨時税を課すと、農民は不穏になり、土地を貴族に売る農民も増えた。スコーネの漁と市への関税を強化したが、商業を圧迫し、ハンザ同盟との緊張が高まった。軍役と引き替え以外の貴族免税特権の撤回を試み、1352年には教会課税をおこなうと、国中に反乱が広まった。1356年には参事会貴族(世俗大貴族と司教)がマグヌス王に反対して、王太子エーリックをスウェーデンとスコーネの王位に就けたが、1359年にエーリックは急死した。マグヌス王が復帰した後、1363年に参事会貴族はメクレンブルク家のアルプレヒト3世を王に招致した。