
イヴァン・カリター ウラジーミル大公になる
モンゴルの支配によって、ルーシの政治的中心はキエフから北東ルーシのウラジーミルへ移った。キプチャク・ハン国成立後、サライを訪れたウラジーミル大公ヤロスラフを、バトゥは「ルーシの地のすべての公の長」に任じた。
1304年ウラジーミル大公アンドレイが死去した。次期大公を目指したのはトヴェーリ公ミハイルとモスクワ公ユーリー。どちらも新興勢力だったが、ミハイルの父がかつて大公だったこともあってトヴェーリが優勢だった。キプチャク・ハンは、ルーシにおける公位継承の慣行を尊重してミハイルを大公に任じた。
1312年、ウズベクがハンを継いだ。ミハイルは大公と認められたが、その後ユーリーも大公の勅許状を得た。1317年新大公ユーリーは、トヴェーリを攻撃したが完敗した。しかしミハイルはハンの意志に反したとして召喚され、処刑された。
1322年、ミハイルの子トヴェーリ公ドミートリーは、ユーリーが貢税の支払いを怠っていると訴えて、大公位への勅許状を得た。ユーリーもサライに向かったが、到着早々、父の敵としてドミートリーに殺されてしまつた。ドミートリーもハンの意向を無視した勝手な振る舞いとして、ハンの命令で処刑された。新たな大公には、トヴェーリ公ドミートリーの弟アレクサンドルが任じられた。
1304年ウラジーミル大公アンドレイが死去した。次期大公を目指したのはトヴェーリ公ミハイルとモスクワ公ユーリー。どちらも新興勢力だったが、ミハイルの父がかつて大公だったこともあってトヴェーリが優勢だった。キプチャク・ハンは、ルーシにおける公位継承の慣行を尊重してミハイルを大公に任じた。
1312年、ウズベクがハンを継いだ。ミハイルは大公と認められたが、その後ユーリーも大公の勅許状を得た。1317年新大公ユーリーは、トヴェーリを攻撃したが完敗した。しかしミハイルはハンの意志に反したとして召喚され、処刑された。
1322年、ミハイルの子トヴェーリ公ドミートリーは、ユーリーが貢税の支払いを怠っていると訴えて、大公位への勅許状を得た。ユーリーもサライに向かったが、到着早々、父の敵としてドミートリーに殺されてしまつた。ドミートリーもハンの意向を無視した勝手な振る舞いとして、ハンの命令で処刑された。新たな大公には、トヴェーリ公ドミートリーの弟アレクサンドルが任じられた。
1327年、トヴェーリで大規模な反タタール暴動が起きた。ウズベク・ハンが派遣した使節を、彼らの横暴に耐えかねたトヴェーリ市民が殺害してしまった。イル・ハン国と対立して、戦う準備をしていたウズベク・ハンが特別な税と兵員を要求したらしい。
モスクワ公イヴァン・カリター(ユーリーの弟)はハンのもとに向かい、タタール懲罰部隊とともに帰国した。トヴェーリを攻め、徹底的に荒らして、大公アレクサンドルはプスコフへ逃亡した。
ハンは大公国を2分したらしい、イヴァンはスーズダリ公と権力を分有している。1331年にスーズダリ公が死去して、イヴァンが大公となった。以後大公位はほぼモスクワによって独占されていく。
ルーシ諸公の地位はキプチャク・ハンの意向に従って決められていた。ルーシでの公位継承の慣行が尊重されていたが、従来の権利がないモスクワ公が大公となった。イヴァンは(息子セミョンも)大公位への正当な権利がなかったため、頻繁にサライを訪れ、ハンと親密な関係を築いた。さらに多額の税を納めることを約束したらしい。リトアニアの勢力拡大に対応する必要もあって、より従順なモスクワが継続的に重用されたらしい。
1330年代
世界各国史22 ロシア史
モスクワ公イヴァン・カリター(ユーリーの弟)はハンのもとに向かい、タタール懲罰部隊とともに帰国した。トヴェーリを攻め、徹底的に荒らして、大公アレクサンドルはプスコフへ逃亡した。
ハンは大公国を2分したらしい、イヴァンはスーズダリ公と権力を分有している。1331年にスーズダリ公が死去して、イヴァンが大公となった。以後大公位はほぼモスクワによって独占されていく。
ルーシ諸公の地位はキプチャク・ハンの意向に従って決められていた。ルーシでの公位継承の慣行が尊重されていたが、従来の権利がないモスクワ公が大公となった。イヴァンは(息子セミョンも)大公位への正当な権利がなかったため、頻繁にサライを訪れ、ハンと親密な関係を築いた。さらに多額の税を納めることを約束したらしい。リトアニアの勢力拡大に対応する必要もあって、より従順なモスクワが継続的に重用されたらしい。
1330年代
世界各国史22 ロシア史