
サルデーニャ王国
1297年に教皇が、「コンスタンティヌスの定め」に基づく権利でサルデーニャをアラゴン国王に授封し、1302年のカルタベロッタの和約で、この授封が確認されていた。1323年アラゴン国王ハイメ2世(ジャコモ)は、支配権を実現するためにサルデーニャに遠征したが、各種の抵抗があって部分的な征服におわった。
9世紀中頃までは全島がビザンツ帝国に従属していたが、その後支配が名目化して、住民の自治体制がつくられていた。カリアリ、トッレス、ガッルーラ、アルボレーアの4つの自治区に分かれ、現地人の支配者によって統治されていた。8世紀以後ムスリムの侵入もあったが、沿岸の一部を占領しただけだった。
11世紀からピサとジェノヴァが連合して侵入し、ムスリムを追放したが、内陸部には至らなかった。両市の商業・植民活動で、13世紀初めにはカリアリ、イグレシアスのような集落が都市として成長したが、経済的・政治的に母市と強固につながっていた。
1330年代以前
世界各国史15 イタリア史
9世紀中頃までは全島がビザンツ帝国に従属していたが、その後支配が名目化して、住民の自治体制がつくられていた。カリアリ、トッレス、ガッルーラ、アルボレーアの4つの自治区に分かれ、現地人の支配者によって統治されていた。8世紀以後ムスリムの侵入もあったが、沿岸の一部を占領しただけだった。
11世紀からピサとジェノヴァが連合して侵入し、ムスリムを追放したが、内陸部には至らなかった。両市の商業・植民活動で、13世紀初めにはカリアリ、イグレシアスのような集落が都市として成長したが、経済的・政治的に母市と強固につながっていた。
1330年代以前
世界各国史15 イタリア史
ピサの植民都市カリアリでは、市壁内部にはピサ人だけが居住し、サルデーニャ人など非ピサ人はその外側に住んでいた。アラゴンの遠征時には、カリアリ、トッレスの自治区は消滅していた。
このような状況のサルデーニャを教皇は、シチリアをアンジュー家に返還させる見返りに、アラゴン国王に授封した。アラゴンの遠征隊に抵抗するうちに、先住民、ピサ人、ジェノヴァ人はサルデーニャ人として同化していった。
ピサは1284年、ピサ沖メローリアの海戦でジェノヴァに大敗し、ジェノヴァは1380年のキオッジァの戦いでヴェネツィアに敗れて勢力を失っていった。アラゴン国王は抵抗を排除しながら支配地を拡大して、1355年最初のサルデーニャ王国議会を招集した。アラゴン国王は、主要都市のみを直轄とし、ほかはカタルーニャ人などに授封した。封地は領主の恣意によるイベリア型で、住民・農民は徹底的に搾取された。サルデーニャ王国は、同君国家連合の一員だったが、実体はカタルーニャ(バルセロナ伯国)の植民地だった。
コルシカは1284年以降ジェノヴァが単独で支配し、教皇から授封されたアラゴン国王も征服できなかった。
ピサは1284年、ピサ沖メローリアの海戦でジェノヴァに大敗し、ジェノヴァは1380年のキオッジァの戦いでヴェネツィアに敗れて勢力を失っていった。アラゴン国王は抵抗を排除しながら支配地を拡大して、1355年最初のサルデーニャ王国議会を招集した。アラゴン国王は、主要都市のみを直轄とし、ほかはカタルーニャ人などに授封した。封地は領主の恣意によるイベリア型で、住民・農民は徹底的に搾取された。サルデーニャ王国は、同君国家連合の一員だったが、実体はカタルーニャ(バルセロナ伯国)の植民地だった。
コルシカは1284年以降ジェノヴァが単独で支配し、教皇から授封されたアラゴン国王も征服できなかった。