
シャルル・ダンジュー シチリア王カルロ1世となる
フリードリヒ2世の死後、帝位とシチリア王位を継いだ息子コンラート4世は、父の庶子マンフレディが実力で統治するシチリア王国を回復するために、イタリアに進入したが実現しないまま1254年に急死した。1258年マンフレディは国王に即位し、60年には娘コンスタンツァをアラゴン王国の後継者ペドロと結婚させた。
教皇は自己のイタリア政策に従う者にシチリア王国を授封しようとして、交渉の結果1263年、フランス国王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューに授封した。シャルルはイタリア商人から調達した資金で遠征し、1266年、ベネヴェントの戦いでマンフレディを敗死させ、68年にはドイツから遠征してきたコンラートの息子コンラーディンを捕虜とし、ナポリで処刑した。これによってホーエンシュタウフェン朝は断絶した。
シャルルは、ナポリに宮廷を置いて、フランス人を高級役職に登用し、イタリア商人に王国財政の実務を担当させた。(これによってフィレンツェが急成長したらしい)
1330年代以前
世界各国史15 イタリア史
教皇は自己のイタリア政策に従う者にシチリア王国を授封しようとして、交渉の結果1263年、フランス国王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューに授封した。シャルルはイタリア商人から調達した資金で遠征し、1266年、ベネヴェントの戦いでマンフレディを敗死させ、68年にはドイツから遠征してきたコンラートの息子コンラーディンを捕虜とし、ナポリで処刑した。これによってホーエンシュタウフェン朝は断絶した。
シャルルは、ナポリに宮廷を置いて、フランス人を高級役職に登用し、イタリア商人に王国財政の実務を担当させた。(これによってフィレンツェが急成長したらしい)
1330年代以前
世界各国史15 イタリア史
シャルルは外国人による支配体制を確立すると、1261年に崩壊していたラテン帝国の復興を計画し、ヴェネツィアと連携してビザンツ帝国への遠征の準備を始めた。最後のラテン皇帝ボードゥアン2世はイタリアに亡命し、1267年のヴィテルボ条約で、すべての権利をシャルルに譲渡し、見返りに年金を受給した。1274年、ボードゥアンの死後、息子フィリップは皇帝の権利を主張したが、シャルルの娘と結婚した。
シャルルは過酷な負担を強いて調達した資金による遠征艦隊を、1282年メッシーナに集結させた。アラゴン国王ペドロ3世は、妻コンスタンツァの権利でシチリア王位を請求したが、アラゴンの宮廷では、シチリアからの亡命貴族が王位獲得を計画し、バルセローナの商人は地中海での勢力拡大のためにその計画を支援し、ビザンツ皇帝もペドロと同盟を結んだ。
1282年3月、パレルモで現地女性に戯れたフランス人兵士を夫が殺害したのを契機に、住民の反フランス感情が爆発し、フランス人の大量虐殺が始まり、島内に拡がった。これが「シチリアの晩禱(ばんとう)」と呼ばれる事件。
シャルルは過酷な負担を強いて調達した資金による遠征艦隊を、1282年メッシーナに集結させた。アラゴン国王ペドロ3世は、妻コンスタンツァの権利でシチリア王位を請求したが、アラゴンの宮廷では、シチリアからの亡命貴族が王位獲得を計画し、バルセローナの商人は地中海での勢力拡大のためにその計画を支援し、ビザンツ皇帝もペドロと同盟を結んだ。
1282年3月、パレルモで現地女性に戯れたフランス人兵士を夫が殺害したのを契機に、住民の反フランス感情が爆発し、フランス人の大量虐殺が始まり、島内に拡がった。これが「シチリアの晩禱(ばんとう)」と呼ばれる事件。