
ビザンツ帝国 再建
1261年7月、ニカイア帝国がラテン帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国を再建したミカエル8世パライオロゴス(在位1259〜82)は旧帝国領の回復を図った。捕虜となっていたアカイア公ギヨーム2世に、釈放と引き換えにペロポネソス半島南部(モレア)を割譲させた。エペイロス専制公国とは協定を結んだ。先制公の息子ニケフォロスとミカエル8世の姪の婚約が成立し、ニケフォロスはミカエル8世から改めて専制公の称号を授与された。
(専制公 ビザンツ帝国の高位称号)
アカイア公ギヨーム2世はその後ビザンツ帝国との関係を絶ち、シチリア=ナポリ王シャルル・ダンジュー(在位1265〜85)に臣従を誓った。1278年ギヨームの死で、シャルル・ダンジューがアカイア公シャルル1世となったが、以後公国の支配体制は緩み、ビザンツ側の攻勢を受けて衰退していった。
1330年代以前
世界各国史17 ギリシア史
地図 ヨーロッパ歴史地図 原書房 1270年 部分
(専制公 ビザンツ帝国の高位称号)
アカイア公ギヨーム2世はその後ビザンツ帝国との関係を絶ち、シチリア=ナポリ王シャルル・ダンジュー(在位1265〜85)に臣従を誓った。1278年ギヨームの死で、シャルル・ダンジューがアカイア公シャルル1世となったが、以後公国の支配体制は緩み、ビザンツ側の攻勢を受けて衰退していった。
1330年代以前
世界各国史17 ギリシア史
地図 ヨーロッパ歴史地図 原書房 1270年 部分
アテネ公国はギュイ2世ブリエンヌ(1287〜1308年)の時代、ヴェネツィアへの農産物輸出で経済は発展し、テーベの絹織物業も活況をみせていた。しかし、ビザンツ皇帝アンドロニコス2世(在位1282〜1328)が小アジアの領土を侵し始めたオスマン集団に対抗するために、招いたカタロニア人傭兵部隊に征服されてしまった。1303年秋にアラゴン王国から来た傭兵部隊は、帝国に背きトラキア、マケドニアを略奪し、1311年にはアテネ公を殺害して、アテネ公国の支配者となった。1385年までカタロニアの支配は続いた。
クレタ島では大土地所有が広がっていた。ヴェネツィアは騎兵・歩兵を入植させるために土地没収をおこなったが、ギリシア人領主の反発を招き、1211年から30年代にかけて何度か反乱が起きた。ヴェネツィアは政策を転換し、ギリシア人領主との融和を図ったらしい。ミカエル8世がビザンツ領回復のためにクレタ島に反乱を促したが、効果がなかった。1283〜99年のアレクシオス・カレルギスの大反乱もヴェネツィア支配下でのギリシア人の地位向上をめざすものだった。
クレタ島では大土地所有が広がっていた。ヴェネツィアは騎兵・歩兵を入植させるために土地没収をおこなったが、ギリシア人領主の反発を招き、1211年から30年代にかけて何度か反乱が起きた。ヴェネツィアは政策を転換し、ギリシア人領主との融和を図ったらしい。ミカエル8世がビザンツ領回復のためにクレタ島に反乱を促したが、効果がなかった。1283〜99年のアレクシオス・カレルギスの大反乱もヴェネツィア支配下でのギリシア人の地位向上をめざすものだった。
