
大空位期
1254〜73年、ドイツに統一国王がいない時期があった。
1250年のフリードリヒ2世の没後、後継者のコンラート4世が4年の統治で死去、対立国王だったホラント伯ヴィルヘルムも1257年に死去した。
ケルンとマインツの大司教、ライン宮中伯、ボヘミア王オタカール2世はイングランドのコーンウォール伯リチャードを国王に選出。その3ヶ月後にトリーア大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、支持を変えたオタカール2世はカスティリャのアルフォンソ10世を選出した。しかしどちらもドイツに留まることができなかった。
すでに、この7人の諸侯に国王の選挙権があるという考え方は成立していたらしい。1263年のローマ教皇ウルバヌス4世の教書には、国王の選挙権がこの7人の諸侯にあると記されている。
世界各国史13 ドイツ史
1330年代以前 ヨーロッパ史年表
1250年のフリードリヒ2世の没後、後継者のコンラート4世が4年の統治で死去、対立国王だったホラント伯ヴィルヘルムも1257年に死去した。
ケルンとマインツの大司教、ライン宮中伯、ボヘミア王オタカール2世はイングランドのコーンウォール伯リチャードを国王に選出。その3ヶ月後にトリーア大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、支持を変えたオタカール2世はカスティリャのアルフォンソ10世を選出した。しかしどちらもドイツに留まることができなかった。
すでに、この7人の諸侯に国王の選挙権があるという考え方は成立していたらしい。1263年のローマ教皇ウルバヌス4世の教書には、国王の選挙権がこの7人の諸侯にあると記されている。
世界各国史13 ドイツ史
1330年代以前 ヨーロッパ史年表
1273年の選挙で、選帝侯たちは弱体と思われる人物を全会一致で選出した。スイスの居城ハビヒツブルクに名前が由来するハプスブルク伯ルードルフ。
ルードルフ1世(国王在位1273〜91)は帝国会議を開催し、「帝国の改革」のために諸侯に帝国財産の返還を求めた。狙いはボヘミア王オタカール2世の弱体化だった。オタカール2世はこれに応えず、封臣としての託身をおこなわなかった。ルードルフはオタカールを帝国追放とし、その封を奪った。さらにオーストリアに侵入し、オタカールとの戦いに勝ってオーストリアに対する権利を放棄させた。1278年、失地回復のためオタカールはウィーンへ向かい、ルードルフとハンガリー人の連合軍に敗れて戦死した。
ルードルフ2世は、帝国諸侯と交渉し、オーストリアとシュタイアーマルク、ケルンテンを長子と次男にレーン(封土)として与え、ハプスブルクの家領とした。ルードルフは権力基盤を固めて皇帝位を求めたが、実現できず1291年に死亡した。
ルードルフ1世(国王在位1273〜91)は帝国会議を開催し、「帝国の改革」のために諸侯に帝国財産の返還を求めた。狙いはボヘミア王オタカール2世の弱体化だった。オタカール2世はこれに応えず、封臣としての託身をおこなわなかった。ルードルフはオタカールを帝国追放とし、その封を奪った。さらにオーストリアに侵入し、オタカールとの戦いに勝ってオーストリアに対する権利を放棄させた。1278年、失地回復のためオタカールはウィーンへ向かい、ルードルフとハンガリー人の連合軍に敗れて戦死した。
ルードルフ2世は、帝国諸侯と交渉し、オーストリアとシュタイアーマルク、ケルンテンを長子と次男にレーン(封土)として与え、ハプスブルクの家領とした。ルードルフは権力基盤を固めて皇帝位を求めたが、実現できず1291年に死亡した。