
シルクロード
前漢の張騫(?〜前114)によって開かれたといわれるシルクロードは先史時代から開拓されていたらしい。漢代になって絹を運ぶ道として重要視された。漢・唐の都長安から西へ向かいシリアの地中海沿岸へ達するシルクロードを通って様々な民族によって順送りに絹・絹製品は運ばれた。
華北に興った中国文明は湿潤の地、華南へ進出。米の栽培には適していたが、揚子江河口から南はリアス式海岸で平野が少ない。住民は水耕稲作を行いながら海上活動を行った。古くから交易が行われていて、華北の支配者たちもインドシナ半島に注目した。
秦の始皇帝は越人を征服して現在の広東に番禺県を置き南海貿易の門戸とした。漢の武帝は日南までの安南人の地(ヴェトナム北部)を領地として7つの郡を置いた。
後漢時代に編纂された前漢の正史「漢書」の「地理誌」には取引された商品が列挙され、インド東岸までにある国名が書かれている。商品の大部分はインド洋地域の物産。象牙、犀角、タイマイ、宝石、香料、銀、銅、果、(木綿)布 など。木綿布はインドで産出される貴重品だった。
華北に興った中国文明は湿潤の地、華南へ進出。米の栽培には適していたが、揚子江河口から南はリアス式海岸で平野が少ない。住民は水耕稲作を行いながら海上活動を行った。古くから交易が行われていて、華北の支配者たちもインドシナ半島に注目した。
秦の始皇帝は越人を征服して現在の広東に番禺県を置き南海貿易の門戸とした。漢の武帝は日南までの安南人の地(ヴェトナム北部)を領地として7つの郡を置いた。
後漢時代に編纂された前漢の正史「漢書」の「地理誌」には取引された商品が列挙され、インド東岸までにある国名が書かれている。商品の大部分はインド洋地域の物産。象牙、犀角、タイマイ、宝石、香料、銀、銅、果、(木綿)布 など。木綿布はインドで産出される貴重品だった。
日南の南には林邑(チャンパ)があり、隋の煬帝が605年に征服した。チャンパにはインドからバラモン教、シバ教、仏教などが伝えられ文化はインド化していた。またチャンパは西の真臘(カンボジャのクメル人)からの圧力も受けていた。
中国人はインドシナの基地からマラッカを経たり、マライ半島を横断してインドへ向かった。またインドから東へ向かう動きもあった。インドとインドシナ半島の経済関係は紀元前500年頃にさかのぼるとされる。紀元開始頃に仏教が伝えられ、4〜5世紀にヒンドゥー教が伝えられた。
166年、後漢・恒帝時代に大秦王安敦の使者が日南経由で洛陽に来て貢ぎ物を捧げた。大秦はローマ帝国、安敦はマルクス・アウレリウス(在位161〜80)だとされる。226年、284年にもローマからの使者が中国を訪れている。本当の使者か自称使者かは不明、貢ぎ物はインド洋世界の産物で、地中海世界の物はなかった。ローマからインド経由で中国までの航路が開かれていたことがわかる。
画像は 図説 大航海時代 増田義郎 河出書房新社
それまでの航海・交易 大航海時代 年表・項目
中国人はインドシナの基地からマラッカを経たり、マライ半島を横断してインドへ向かった。またインドから東へ向かう動きもあった。インドとインドシナ半島の経済関係は紀元前500年頃にさかのぼるとされる。紀元開始頃に仏教が伝えられ、4〜5世紀にヒンドゥー教が伝えられた。
166年、後漢・恒帝時代に大秦王安敦の使者が日南経由で洛陽に来て貢ぎ物を捧げた。大秦はローマ帝国、安敦はマルクス・アウレリウス(在位161〜80)だとされる。226年、284年にもローマからの使者が中国を訪れている。本当の使者か自称使者かは不明、貢ぎ物はインド洋世界の産物で、地中海世界の物はなかった。ローマからインド経由で中国までの航路が開かれていたことがわかる。
画像は 図説 大航海時代 増田義郎 河出書房新社
それまでの航海・交易 大航海時代 年表・項目
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