モンゴルとの交流
教皇の「タルタルの王と民衆」宛の手紙は大汗のキリスト教への改宗の可能性を探るためだったかもしれない。しかしその返書は高圧的で絶対的な服従を命じていた。
中世ヨーロッパではアジアのどこかに強力なキリスト教国の王プレスター・ジョン(ブレステ・ジョアン)がいると信じられていた。その王を探す目的もあったのだろう。やがてアジアにはいないとわかり、アフリカのどこかにいると変わっていった。
アジアにはカトリックから見ると異端のネストリウス派の信者がかなりいることもわかっていた。彼らをカトリックに復帰させ反モンゴル勢力にすることも考えたらしい。しかし実際はモンゴルとの仲介者としてカトリック教会の手助けとなっていた。
カトリック側にも変化があった。13世紀初めに成立した修道会、フランチェスコ会とドミニコ会が異教徒への布教に熱意を示し、現地語での布教も考えていたらしい。
モンゴルが貿易を奨励していたこともあって、イタリア商人もジャムチを利用してアジアの未知の土地に進出した。
それまでの航海・交易 大航海時代 年表・項目
中世ヨーロッパではアジアのどこかに強力なキリスト教国の王プレスター・ジョン(ブレステ・ジョアン)がいると信じられていた。その王を探す目的もあったのだろう。やがてアジアにはいないとわかり、アフリカのどこかにいると変わっていった。
アジアにはカトリックから見ると異端のネストリウス派の信者がかなりいることもわかっていた。彼らをカトリックに復帰させ反モンゴル勢力にすることも考えたらしい。しかし実際はモンゴルとの仲介者としてカトリック教会の手助けとなっていた。
カトリック側にも変化があった。13世紀初めに成立した修道会、フランチェスコ会とドミニコ会が異教徒への布教に熱意を示し、現地語での布教も考えていたらしい。
モンゴルが貿易を奨励していたこともあって、イタリア商人もジャムチを利用してアジアの未知の土地に進出した。
それまでの航海・交易 大航海時代 年表・項目
13世紀末にはカスピ海でジェノヴァ商人の船が就航し、少なくないジェノヴァ、ヴェネツィアの商人がアジアへ向かっていた。1951年に揚州で発見された石碑が1342年に死んだイタリア人女性の墓石だったこともわかっている。
ヨーロッパ中世経済史の研究者ロバート・ロペズの言葉が紹介されている。まとめると
10世紀 ヴェネツィア商人とパヴィア(ミラノの南)への途上で会うと驚きだった
11世紀 コンスタンティノープルへの旅が日常的になった
12世紀 エルサレムがよく知られた目的地になった
13世紀 トレビゾンド、タブリーズ、アストラハン、タナに人々がよく行くようになった。
1340年頃 フィレンツェの商人兼銀行家
アゾフ海のタナからトルキスタン、モンゴリア経由で北京に行く道は昼夜安全で、中国に到達する方法について詳細な説明をし、地方通貨や関税についての情報を提供できる。
黒海からアジアへの道 モンゴルをはじめとする遊牧民が定着させた通商路、イタリア商人たちはこの道を通ってアジアに入った。
図説 大航海時代 河出書房新社
ヨーロッパ中世経済史の研究者ロバート・ロペズの言葉が紹介されている。まとめると
10世紀 ヴェネツィア商人とパヴィア(ミラノの南)への途上で会うと驚きだった
11世紀 コンスタンティノープルへの旅が日常的になった
12世紀 エルサレムがよく知られた目的地になった
13世紀 トレビゾンド、タブリーズ、アストラハン、タナに人々がよく行くようになった。
1340年頃 フィレンツェの商人兼銀行家
アゾフ海のタナからトルキスタン、モンゴリア経由で北京に行く道は昼夜安全で、中国に到達する方法について詳細な説明をし、地方通貨や関税についての情報を提供できる。
図説 大航海時代 河出書房新社