モンゴルの征服
1206年ジンギス汗が世界征服を開始。元を中心にキプチャク汗国、イル汗国、チャガタイ汗国がゆるやかに統合された世界帝国となり「モンゴルの平和」を実現した。
1253年ジンギス汗の孫モンケ汗は弟のフレグを西アジア遠征に派遣した。1258年フレグはバグダードを攻略、アッバース朝を滅ぼした。次いでシリア・エジプトのマムルーク朝へ向かったが、パレスティナでマムルーク朝の待ち伏せに大敗、その後モンゴル軍は何度かエジプト征服を試みたが失敗に終わった。
エジプトの紅海・インド洋貿易は維持され、ヨーロッパ、モンゴルからの介入はできなかった。ヨーロッパ人は十字軍の時代に試みて失敗、イル汗国と協力する案も出されたが実現しなかった。
モンゴル軍による大量虐殺はヨーロッパ人も知っていた。1221年イラン北部のメルヴで70万人、1258年バグダードで80万人(200万人とする説も)、1240年にはキエフ、ハンガリーも破壊された。1241年リーグニッツ(ワールシュタット)の戦いではドイツ・ポーランド連合軍の殺された兵士の耳が7つの袋に入れられてカラコルムに送られたという。ヨーロッパに危機が迫ったが1241年大汗オゴディが死去、クリルタイのためにモンゴル軍はカラコルムへ戻った。
1253年ジンギス汗の孫モンケ汗は弟のフレグを西アジア遠征に派遣した。1258年フレグはバグダードを攻略、アッバース朝を滅ぼした。次いでシリア・エジプトのマムルーク朝へ向かったが、パレスティナでマムルーク朝の待ち伏せに大敗、その後モンゴル軍は何度かエジプト征服を試みたが失敗に終わった。
エジプトの紅海・インド洋貿易は維持され、ヨーロッパ、モンゴルからの介入はできなかった。ヨーロッパ人は十字軍の時代に試みて失敗、イル汗国と協力する案も出されたが実現しなかった。
モンゴル軍による大量虐殺はヨーロッパ人も知っていた。1221年イラン北部のメルヴで70万人、1258年バグダードで80万人(200万人とする説も)、1240年にはキエフ、ハンガリーも破壊された。1241年リーグニッツ(ワールシュタット)の戦いではドイツ・ポーランド連合軍の殺された兵士の耳が7つの袋に入れられてカラコルムに送られたという。ヨーロッパに危機が迫ったが1241年大汗オゴディが死去、クリルタイのためにモンゴル軍はカラコルムへ戻った。
ヨーロッパ人はモンゴル軍を恐れながらも接触を図っていた。1245年教皇イノケンティウス4世はフランチェスコ会士カルピーニに「タルタルの王と民衆」に宛てた手紙を託して大汗のもとへ派遣した。カルピーニはキプチャク汗に会ってカラコルムへ向かった。ジャムチと呼ばれる駅伝制(1235年から)が完備し、道も整備されていた。1246年7月カラコルムに着き、11月教皇宛ての返書を受け取り1248年リヨンに戻った。
1253年フランス王ルイ9世はフランチェスコ会修道士リュブリュキをカラコルムに派遣、翌年4月にカラコルムに着いた。この二人は旅行報告書を作成しアジア内陸についての情報を伝えている。
他にもモンゴル、中国へ向かった聖職者がいた。フランチェスコ会のモンテコルヴィーノはフビライ汗の宮廷で布教を許され、教会堂と学校を建設している。1307年には初代北京大司教に任命された。
それまでの航海・交易 大航海時代 年表・項目
モンゴル帝国の最大領域
詳説 世界史図録 山川出版社
1253年フランス王ルイ9世はフランチェスコ会修道士リュブリュキをカラコルムに派遣、翌年4月にカラコルムに着いた。この二人は旅行報告書を作成しアジア内陸についての情報を伝えている。
他にもモンゴル、中国へ向かった聖職者がいた。フランチェスコ会のモンテコルヴィーノはフビライ汗の宮廷で布教を許され、教会堂と学校を建設している。1307年には初代北京大司教に任命された。
それまでの航海・交易 大航海時代 年表・項目
詳説 世界史図録 山川出版社