
ルネ・ダンジュー(ルネ王)
14世紀後半、プロヴァンス伯家の当主ジャンヌはナポリに住み、プロヴァンスには関心がなかったらしい。アヴィニョンを教皇に売り渡してもいる。ジャンヌが養嗣子としたのが、フランス王シャルル5世の弟アンジュー公ルイ1世、以後アンジュー公はプロヴァンスを支配し、ジャンヌのイタリアでの遺産を他の候補者たちと争っていく。後を継いだアンジュー公ルイ3世が1434年ナポリ遠征中に死去したため、弟ルネ(1409〜1480 ロレーヌ公女と結婚しロレーヌ公)が兄の全ての所領を相続した。
アンジュー公、プロヴァンス伯、バール公、ロレーヌ公で名目上はナポリ、シチリア、エルサレム王の称号を名乗ることになった。しかし現実はロレーヌ公領をめぐる、フィリップ善良公を後ろ盾としたヴォーデモン伯との戦いに敗れ、捕虜としてディジョンで幽閉されていた。
ブルゴーニュ公に多額の身代金を支払って解放された後、ナポリでアラゴン王アルフォンソ5世と王位を争ったが、1442年敗れてプロヴァンスに戻った。
1430年代、捕虜だった頃ネーデルラントへ行きヤン・ファン・エイクと知り合いになったらしい。ルネは晩年に至るまで多くのフランドル出身の画家を召し抱えている。
ナポリ遠征にもそれらの画家たちを伴い、短いナポリ王国統治期間(1438〜42)にフランドルの画風を伝えている。また1450年代にはヴェネツィアの要人から数冊の美麗な写本を贈られている。マンテーニャ周辺の画家による装飾・挿絵が施された「聖マウリツィウス」「ストラボン」などによってイタリアの画風が彼の周辺のフランドル出身の画家たちに伝えられた。
エクサン・プロヴァンスがルネ王の宮廷所在地、経済的中心、大司教座としてアヴィニョンと並ぶプロヴァンス地方の中心地となった。サント・マドレーヌ聖堂に中央パネルが残る三連祭壇画が制作されたのは1443〜45年頃と推定されている。名前が伝わらず「エクスの受胎告知の画家」と呼ばれる画家はファン・エイク、ロベール・カンパンの画風を知っていた。南フランスの強い光によって明暗がより強められている。
世界美術大全集10 ゴシック2
人物略歴
アンジュー公、プロヴァンス伯、バール公、ロレーヌ公で名目上はナポリ、シチリア、エルサレム王の称号を名乗ることになった。しかし現実はロレーヌ公領をめぐる、フィリップ善良公を後ろ盾としたヴォーデモン伯との戦いに敗れ、捕虜としてディジョンで幽閉されていた。
ブルゴーニュ公に多額の身代金を支払って解放された後、ナポリでアラゴン王アルフォンソ5世と王位を争ったが、1442年敗れてプロヴァンスに戻った。
1430年代、捕虜だった頃ネーデルラントへ行きヤン・ファン・エイクと知り合いになったらしい。ルネは晩年に至るまで多くのフランドル出身の画家を召し抱えている。
ナポリ遠征にもそれらの画家たちを伴い、短いナポリ王国統治期間(1438〜42)にフランドルの画風を伝えている。また1450年代にはヴェネツィアの要人から数冊の美麗な写本を贈られている。マンテーニャ周辺の画家による装飾・挿絵が施された「聖マウリツィウス」「ストラボン」などによってイタリアの画風が彼の周辺のフランドル出身の画家たちに伝えられた。
エクサン・プロヴァンスがルネ王の宮廷所在地、経済的中心、大司教座としてアヴィニョンと並ぶプロヴァンス地方の中心地となった。サント・マドレーヌ聖堂に中央パネルが残る三連祭壇画が制作されたのは1443〜45年頃と推定されている。名前が伝わらず「エクスの受胎告知の画家」と呼ばれる画家はファン・エイク、ロベール・カンパンの画風を知っていた。南フランスの強い光によって明暗がより強められている。
世界美術大全集10 ゴシック2
人物略歴
1440年代制作とされる「モーガンの時禱書」の装飾が「エクスの受胎告知の画家」とアンゲラン・カルトンの共同制作とされ、1444年の年記のある文書に証人としてカルトンとバルテルミー・デックが並んで署名している。バルテルミーは1449年から70年まで侍僕・宮廷画家としてルネ王に従っていた人物。「受胎告知」とルネ王の著作「愛に奪われし心の書」のウィーン写本の挿絵(ルネ王の画家 )、「モーガンの時禱書」に共通する人物表現が見られることから「エクスの受胎告知の画家」と「ルネ王の画家」は同一人物で、バルテルミーがその人物(名前)とする説も出されている。
バルテルミー・デックは1444年にエクスで工房を開き市井の人々の注文を受けていたらしい。1449年に宮廷画家となって、後年王の著作の写本装飾に専念するようになったと考えられている。1460〜70年代には「騎馬試合定式書」「愛に奪われし心の書」「テセイデ(仏訳本)」を制作している。現在ウィーンにある2写本の挿絵は未完のまま残されているが、「テセイデ」はロワール川流域の逸名画家によって完成されている。ルネ王がプロヴァンスからロワール川流域へと移り、従っていたバルテルミーはフーケ周辺の画家たちとの接触もあったらしい。直接のネーデルラントからの影響は見られないが、「愛に奪われし心の書」にはプロヴァンスの景観が自然描写に活かされている。
教会大分裂(1378〜1417年)が終わった後、アヴィニョンは教皇特使の枢機卿が駐在する教皇領の国際都市としてエクスと並んで芸術活動の中心だった。契約書に見られる画家と現存する作品の多くは結びつけられていない。
アヴィニョン在住のアンゲラン・カルトンには契約書によって確実な作品が残されている。シャンティイの「慈悲の聖母」とアヴィニョンの「聖母戴冠」。ルーヴルの「アヴィニョンのピエタ」の作者をカルトンとする説もある。1466年の年期をもつ「ジャン・デ・マルタンのミサ典書」挿絵はカルトン後期の作品。
ルネ王にフロヴァンスで用いられた画家で確実な作品が残されているのがニコラ・フロマン。1461年に描かれた初期の作品が「ラザロの蘇生」、生地ピカルディーかフランドルで修業したとされている。現在エクサン・プロヴァンス大聖堂にある1476年完成の「燃える柴の三連祭壇画」にはネーデルラントからの影響が見られるとともにプロヴァンスの画家からの影響も受け入れている。
15世紀末プロヴァンスはフランス王国に併合された。
バルテルミー・デックは1444年にエクスで工房を開き市井の人々の注文を受けていたらしい。1449年に宮廷画家となって、後年王の著作の写本装飾に専念するようになったと考えられている。1460〜70年代には「騎馬試合定式書」「愛に奪われし心の書」「テセイデ(仏訳本)」を制作している。現在ウィーンにある2写本の挿絵は未完のまま残されているが、「テセイデ」はロワール川流域の逸名画家によって完成されている。ルネ王がプロヴァンスからロワール川流域へと移り、従っていたバルテルミーはフーケ周辺の画家たちとの接触もあったらしい。直接のネーデルラントからの影響は見られないが、「愛に奪われし心の書」にはプロヴァンスの景観が自然描写に活かされている。
教会大分裂(1378〜1417年)が終わった後、アヴィニョンは教皇特使の枢機卿が駐在する教皇領の国際都市としてエクスと並んで芸術活動の中心だった。契約書に見られる画家と現存する作品の多くは結びつけられていない。
アヴィニョン在住のアンゲラン・カルトンには契約書によって確実な作品が残されている。シャンティイの「慈悲の聖母」とアヴィニョンの「聖母戴冠」。ルーヴルの「アヴィニョンのピエタ」の作者をカルトンとする説もある。1466年の年期をもつ「ジャン・デ・マルタンのミサ典書」挿絵はカルトン後期の作品。
ルネ王にフロヴァンスで用いられた画家で確実な作品が残されているのがニコラ・フロマン。1461年に描かれた初期の作品が「ラザロの蘇生」、生地ピカルディーかフランドルで修業したとされている。現在エクサン・プロヴァンス大聖堂にある1476年完成の「燃える柴の三連祭壇画」にはネーデルラントからの影響が見られるとともにプロヴァンスの画家からの影響も受け入れている。
15世紀末プロヴァンスはフランス王国に併合された。