
ファブリアーノ
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(1370頃〜1427)
マルケ地方ファブリアーノで生まれた。作品をもとに修業の場について、いくつかの説が出されているが不明。
生地ファブリアーノ時代の作品として「聖母子と聖ニコラウス、聖女カタリナ、寄進者」、「聖母戴冠(ヴァッレ・ロミタ多翼祭壇画)」が残されている。
1408年にはヴェネツィアで祭壇画の支払いに関する記録が残されている。パラッツォ・ドゥカーレの大評議室に海戦図壁画(消失)を依頼されていることから、高く評価されていた画家だったことがわかる。この頃、教会のための画家という立場から、世俗の政府、宮廷、大商人などからの注文を受ける画家へと変わっていったらしい。
1414年から19年までブレーシャに滞在。領主パンドルフォ・マラテスタのために礼拝堂壁画を制作(断片が発見されている)。この頃ミラノを中心に流行していた「国際ゴシック様式」の作品に触れ、動植物の繊細で写実的な描写を会得したらしい。
1418年10月、教皇マルティヌス5世がコンスタンツ宗教会議のあとブレーシャに立ち寄り礼拝堂壁画を見ている。翌年マラテスタからジェンティーレの作品を贈られた教皇はジェンティーレをローマに招いたが、実現したのは1427年だった。(この頃ローマは政治的に混乱していて、コロンナ家出身の教皇マルティヌス5世はローマに入れず、1419年からフィレンツェに留まっていた)
人物略歴
マルケ地方ファブリアーノで生まれた。作品をもとに修業の場について、いくつかの説が出されているが不明。
生地ファブリアーノ時代の作品として「聖母子と聖ニコラウス、聖女カタリナ、寄進者」、「聖母戴冠(ヴァッレ・ロミタ多翼祭壇画)」が残されている。
1408年にはヴェネツィアで祭壇画の支払いに関する記録が残されている。パラッツォ・ドゥカーレの大評議室に海戦図壁画(消失)を依頼されていることから、高く評価されていた画家だったことがわかる。この頃、教会のための画家という立場から、世俗の政府、宮廷、大商人などからの注文を受ける画家へと変わっていったらしい。
1414年から19年までブレーシャに滞在。領主パンドルフォ・マラテスタのために礼拝堂壁画を制作(断片が発見されている)。この頃ミラノを中心に流行していた「国際ゴシック様式」の作品に触れ、動植物の繊細で写実的な描写を会得したらしい。
1418年10月、教皇マルティヌス5世がコンスタンツ宗教会議のあとブレーシャに立ち寄り礼拝堂壁画を見ている。翌年マラテスタからジェンティーレの作品を贈られた教皇はジェンティーレをローマに招いたが、実現したのは1427年だった。(この頃ローマは政治的に混乱していて、コロンナ家出身の教皇マルティヌス5世はローマに入れず、1419年からフィレンツェに留まっていた)
人物略歴
1420年夏、ジェンティーレはフィレンツェでストロッツィ家の人から家を借りている。1423年に制作されたのがパッラ・ストロッツィに依頼され、サンタ・トリニタ聖堂礼拝堂のために制作された「マギの礼拝」。豪華な作品のため、ロレンツォ・モナコの作品(1421〜22年)との比較で「世俗的で、非宗教的」とも評されている。
1425年には「クァラテージ多翼祭壇画」を完成。フィレンツェ、シエナ美術からの影響も取り入れている。
1427年ローマへ向かう。教皇マルティヌス5世の依頼でサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の壁画「洗礼者ヨハネ伝と預言者」を描き始めたが、同年死去。ピサネッロ(1395〜1455頃)が引き継ぎ1432年に完成した。後年の聖堂改修の際に壁画は消失したが、ヴァザーリは「それらは誠に優雅で、能う限り美しい。というのは、彼はそこに教皇マルティヌス5世から下賜された、いまだ比すべきものがないほどに美しく艶のある一種の紺青色の青を、いともふんだんに用いたからである」と伝えている。(青は白水社版では一種のウルトラ・マリンとされている。)
ジェンティーレがフィレンツェにいた頃、ロレンツォ・モナコはすでに最晩年で、ジェンティーレの作品にロレンツォの影響は見られない。ジェンティーレの目はギベルティやマザッチョに向けられていた。
世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1
世界美術大事典 小学館
1425年には「クァラテージ多翼祭壇画」を完成。フィレンツェ、シエナ美術からの影響も取り入れている。
1427年ローマへ向かう。教皇マルティヌス5世の依頼でサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の壁画「洗礼者ヨハネ伝と預言者」を描き始めたが、同年死去。ピサネッロ(1395〜1455頃)が引き継ぎ1432年に完成した。後年の聖堂改修の際に壁画は消失したが、ヴァザーリは「それらは誠に優雅で、能う限り美しい。というのは、彼はそこに教皇マルティヌス5世から下賜された、いまだ比すべきものがないほどに美しく艶のある一種の紺青色の青を、いともふんだんに用いたからである」と伝えている。(青は白水社版では一種のウルトラ・マリンとされている。)
ジェンティーレがフィレンツェにいた頃、ロレンツォ・モナコはすでに最晩年で、ジェンティーレの作品にロレンツォの影響は見られない。ジェンティーレの目はギベルティやマザッチョに向けられていた。
世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1
世界美術大事典 小学館