
ハンス・メムリンク
ハンス・メムリンク Hans Memling
(1430/1440頃〜1494)
ブリュージュは初期フランドル絵画で、ヤン・ファン・エイクが重要な作品を残し、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが敬虔な宗教的情熱を描きだした町だった。
ドイツ生まれのハンス・メムリンクは、1460年代にはブリュージュのロヒール・ファン・デル・ウェイデンの工房で有能な助手になっていた。コルンバ祭壇画(1460年頃)にメムリンクの影響がみられるとされる。メムリンクは感傷的な写実で、中世への憧れが強かったロマン主義の時代には賞讃されていた。彼の先人の特長を取り入れる折衷主義と保守主義は、初期フランドル絵画の特質を表しているともされる。しかし、今日的な芸術の独創性という基準からは遠く、パノフスキーは「偉大なる群小画家」と呼んでいる。
1464年ロヒールの没後、メムリンクはブリュージュに居を定め、聖ヨハネ施療院が重要な注文主となった。施療院はメムリンク美術館となっている。
(1430/1440頃〜1494)
ブリュージュは初期フランドル絵画で、ヤン・ファン・エイクが重要な作品を残し、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが敬虔な宗教的情熱を描きだした町だった。
ドイツ生まれのハンス・メムリンクは、1460年代にはブリュージュのロヒール・ファン・デル・ウェイデンの工房で有能な助手になっていた。コルンバ祭壇画(1460年頃)にメムリンクの影響がみられるとされる。メムリンクは感傷的な写実で、中世への憧れが強かったロマン主義の時代には賞讃されていた。彼の先人の特長を取り入れる折衷主義と保守主義は、初期フランドル絵画の特質を表しているともされる。しかし、今日的な芸術の独創性という基準からは遠く、パノフスキーは「偉大なる群小画家」と呼んでいる。
1464年ロヒールの没後、メムリンクはブリュージュに居を定め、聖ヨハネ施療院が重要な注文主となった。施療院はメムリンク美術館となっている。
聖母子とマルティン・ファン・ニーウェンホーフェの肖像(1487年)では、聖母の容姿や衣服・鏡にヤンの、聖母を礼拝する個人の肖像という形式がロヒールの、窓から風景が見える室内肖像画の形式はバウツの影響を受けているとされる。
聖女ウルスラ聖遺物匣(箱 1489年)では、それまでみられなかった物語表現への関心が示されている。キリストの受難(1470〜71年)、聖母の七つの喜び(1480年)は異時同図表現の画面全体から一つの物語が描き出されている。1500年頃のフランドル絵画の物語性への動きを先取りしているともされる。
メムリンクの作品はイタリア人にも好まれ、多くの肖像画の注文を受けている。トンマーゾ・ポルティナーリとマリア・バロンチェッリの肖像(1470年頃)。またメムリンクは背景を風景にした、風景肖像画の形式を造ったともされる。フランドル絵画の特長である風景と肖像を組み合わせた作品は16世紀まで好評だった。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴
聖女ウルスラ聖遺物匣(箱 1489年)では、それまでみられなかった物語表現への関心が示されている。キリストの受難(1470〜71年)、聖母の七つの喜び(1480年)は異時同図表現の画面全体から一つの物語が描き出されている。1500年頃のフランドル絵画の物語性への動きを先取りしているともされる。
メムリンクの作品はイタリア人にも好まれ、多くの肖像画の注文を受けている。トンマーゾ・ポルティナーリとマリア・バロンチェッリの肖像(1470年頃)。またメムリンクは背景を風景にした、風景肖像画の形式を造ったともされる。フランドル絵画の特長である風景と肖像を組み合わせた作品は16世紀まで好評だった。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴