
ロレンツェッティ兄弟
ピエトロ・ロレンツェッティ Pietro lorenzetti
1280頃シエナ〜1348シエナ
アンブロージョ・ロレンツェッティ Ambrogio lorenzetti
1290年代シエナ〜1348シエナ
ロレンツェッティ兄弟の兄とされるピエトロ・ロレンツェッティ。彼について残されている最初の記録は1306年の税金に関するもの。アンブロージョについての同種の記録より14年早く、二人の名前が記されていたスカラ病院ファサードの壁画(現存せず)ではピエトロの名が先に書かれている。二人がシエナ出身ということは確実だとされていて、ピエトロの生年は1280年頃とされている。
最初の年記のある作品はアレッツォ、サンタ・マリア教区聖堂の多翼祭壇画。1320年なので40才位の作品。人物の表情は生き生きとして人なつこさが感じられるという。互いに見つめ合う聖母と幼児キリストの表現は、シエナで活動していたピサ出身の彫刻家ジョヴァンニ・ピサーノからの影響とされる。
修業時期や初期の制作活動については知られていない。1310〜20年代にアッシジのサン・フランチェスコ聖堂下堂の「受難伝」を中心とする壁画群に携わり、ジョットの影響を含め様々な変化を見せている。
1335年にピエトロのためにラテン語の聖人伝をイタリア語訳した先生が支払いを受けたという記録と、1342年に5年前に死亡した彫刻家の息子の後見人となって土地の購入にあたったという史料が残されている。当時の画家が主題について学んだ方法と、職人間の連帯を伝える記録といえる。
1348年ペストのため死去したらしい。
1280頃シエナ〜1348シエナ
アンブロージョ・ロレンツェッティ Ambrogio lorenzetti
1290年代シエナ〜1348シエナ
ロレンツェッティ兄弟の兄とされるピエトロ・ロレンツェッティ。彼について残されている最初の記録は1306年の税金に関するもの。アンブロージョについての同種の記録より14年早く、二人の名前が記されていたスカラ病院ファサードの壁画(現存せず)ではピエトロの名が先に書かれている。二人がシエナ出身ということは確実だとされていて、ピエトロの生年は1280年頃とされている。
最初の年記のある作品はアレッツォ、サンタ・マリア教区聖堂の多翼祭壇画。1320年なので40才位の作品。人物の表情は生き生きとして人なつこさが感じられるという。互いに見つめ合う聖母と幼児キリストの表現は、シエナで活動していたピサ出身の彫刻家ジョヴァンニ・ピサーノからの影響とされる。
修業時期や初期の制作活動については知られていない。1310〜20年代にアッシジのサン・フランチェスコ聖堂下堂の「受難伝」を中心とする壁画群に携わり、ジョットの影響を含め様々な変化を見せている。
1335年にピエトロのためにラテン語の聖人伝をイタリア語訳した先生が支払いを受けたという記録と、1342年に5年前に死亡した彫刻家の息子の後見人となって土地の購入にあたったという史料が残されている。当時の画家が主題について学んだ方法と、職人間の連帯を伝える記録といえる。
1348年ペストのため死去したらしい。
アンブロージョ・ロレンツェッティについての最初の記録は1321年にフィレンツェで借金のために差し押さえを受けたこと。そして1324年にはシエナで土地を売っている。
1347年には「パチアーリ(和平委員)」の委員会で演説をし、1348年6月に遺書を書いている。
パチアーリというのは夜警の兵士を監視する役目で、社会的に信頼されていたらしい。1348年ペストで死去、妻と3人の娘も間もなく世を去った。彼の家はシモーネ・マルティーニの家より高く売れたらしい。
最初の年記がある作品は1319年の「ヴィーコ・ラパーテの聖母」。フィレンツェ領内の聖堂のためのもので、1327年にフィレンツェの画家組合に登録している。アンブロージョの特徴としてフィレンツェとの深い関係があげられる。
1344年の「受胎告知」は最初に一点消失の遠近法を用いた作品といわれるし、ほかにも時代を先取りしたような空間表現も見られる。シエナに定住してからはシモーネに次いで「シエナ市の画家」となり様々な作品を制作、ピエトロとともにスカラ病院ファサードの壁画、市庁舎の可動式の「世界地図」(どちらも現存しない)なども描いている。
1338年から1340年にかけて市庁舎「ノーヴェの間」に描かれた「善政と悪政の寓意」はシエナ絵画の総決算といえるもの。市政を司った上層市民の思想を表現しながら、風俗描写も豊富。「ノーヴェ体制」のシエナ派絵画は1348年のペストで決定的な打撃を被った。
世界美術大全集10 ゴシック2 人物略歴
1347年には「パチアーリ(和平委員)」の委員会で演説をし、1348年6月に遺書を書いている。
パチアーリというのは夜警の兵士を監視する役目で、社会的に信頼されていたらしい。1348年ペストで死去、妻と3人の娘も間もなく世を去った。彼の家はシモーネ・マルティーニの家より高く売れたらしい。
最初の年記がある作品は1319年の「ヴィーコ・ラパーテの聖母」。フィレンツェ領内の聖堂のためのもので、1327年にフィレンツェの画家組合に登録している。アンブロージョの特徴としてフィレンツェとの深い関係があげられる。
1344年の「受胎告知」は最初に一点消失の遠近法を用いた作品といわれるし、ほかにも時代を先取りしたような空間表現も見られる。シエナに定住してからはシモーネに次いで「シエナ市の画家」となり様々な作品を制作、ピエトロとともにスカラ病院ファサードの壁画、市庁舎の可動式の「世界地図」(どちらも現存しない)なども描いている。
1338年から1340年にかけて市庁舎「ノーヴェの間」に描かれた「善政と悪政の寓意」はシエナ絵画の総決算といえるもの。市政を司った上層市民の思想を表現しながら、風俗描写も豊富。「ノーヴェ体制」のシエナ派絵画は1348年のペストで決定的な打撃を被った。
世界美術大全集10 ゴシック2 人物略歴