
ハンス・ホルバイン
ハンス・ホルバイン Hans Holbein
(1497/98〜1543)
アウクスブルクで画家ハンス・ホルバインの次男として生まれた。父と同名のため(子)がつけられる。長男アンブロジウスも画家だが、1517年にバーゼルの画家組合に加入したあと、1519年以降の消息はわからない。
1515年に兄弟でバーゼルに来ている。バーゼル大学で学び、後にスイス宗教改革史に名を残すオズヴァルト・ミュコニウスが開いていた読み書きの塾の看板を描いている。またミュコニウスが購入したエラスムスの「痴愚神礼讃」に82点の挿絵を描いている。(この挿絵は1676年以降、複製の木版画・銅版画で有名になった。)
1516年にバーゼル市長ヤコプ・マイヤー夫妻の二重肖像画を描いている。翌年父とともにルツェルン(スイス)を訪れ、バーゼルに戻って、1519年にバーゼルの画家組合「ツーム・ヒメル」に加入し、翌年に結婚、バーゼルの市民権を得ている。1526年頃に、政争で敗れ市長を辞職していたヤコプ・マイヤーの自邸礼拝堂の祭壇画「ヤコプ・マイヤーの聖母」を制作している。
1526年の夏の終わり、ホルバインはアントウェルペン経由でイギリスに渡り、エラスムスから紹介されたロンドンのサー・トマス・モア(1478〜1535)の保護を受けた。(第1次イギリス時代)
「サー・トマス・モアの肖像」「カンタベリー大司教ウィリアム・ウォーラムの肖像」「ニクラウス・クラッツァーの肖像」などを描いている。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴
(1497/98〜1543)
アウクスブルクで画家ハンス・ホルバインの次男として生まれた。父と同名のため(子)がつけられる。長男アンブロジウスも画家だが、1517年にバーゼルの画家組合に加入したあと、1519年以降の消息はわからない。
1515年に兄弟でバーゼルに来ている。バーゼル大学で学び、後にスイス宗教改革史に名を残すオズヴァルト・ミュコニウスが開いていた読み書きの塾の看板を描いている。またミュコニウスが購入したエラスムスの「痴愚神礼讃」に82点の挿絵を描いている。(この挿絵は1676年以降、複製の木版画・銅版画で有名になった。)
1516年にバーゼル市長ヤコプ・マイヤー夫妻の二重肖像画を描いている。翌年父とともにルツェルン(スイス)を訪れ、バーゼルに戻って、1519年にバーゼルの画家組合「ツーム・ヒメル」に加入し、翌年に結婚、バーゼルの市民権を得ている。1526年頃に、政争で敗れ市長を辞職していたヤコプ・マイヤーの自邸礼拝堂の祭壇画「ヤコプ・マイヤーの聖母」を制作している。
1526年の夏の終わり、ホルバインはアントウェルペン経由でイギリスに渡り、エラスムスから紹介されたロンドンのサー・トマス・モア(1478〜1535)の保護を受けた。(第1次イギリス時代)
「サー・トマス・モアの肖像」「カンタベリー大司教ウィリアム・ウォーラムの肖像」「ニクラウス・クラッツァーの肖像」などを描いている。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴
1528年にバーゼルへ戻り、バーゼル大聖堂のパイプオルガンの扉絵(最後の大きな聖母子図)を描いた。バーゼルにも宗教改革の動きが伝わり、1529年には聖像破壊の暴動が起きた。1530年にバーゼル市庁舎会議場に壁画を描いたが、これでバーゼルでの大きな仕事は終わった。
1532年の晩春か初夏の頃再びロンドン行っている(第2次イギリス時代)。1538年の一時期バーゼルに帰っているが、市長・市参事会の説得を振り切って、またロンドンに戻っている。1543年の秋、ロンドンで客死した。
「ゲオルク・ギーゼの肖像」「大使たち」、1536年頃からヘンリー8世の宮廷画家となり「ジェーン・シーモアの肖像」などを制作している。
トマス・モアは1529年に大法官に任命されたが、32年に辞任、35年に処刑された。1534年にヘンリー8世は国王至上法(首長令)を制定し英国教会を成立させた。皇帝の姉キャサリン・オブ・アラゴンと離婚し、アン・ブーリンと再婚するためでもあった。ヘンリー8世は穏健な宗教改革を進めようとしていた。これに関連して、フランス王フランソワ1世が若い大使たちを派遣した。
多くの肖像画を描くために、ホルバインは工夫していたらしい。第1次イギリス時代には念入りな習作を残しているが、第2次イギリス時代になると、習作は頭部の輪郭線を強調し、衣裳などはあっさりと描いている。アルベルティが考案した「ヴェール」、レオナルド・ダ・ヴィンチが推奨したガラス板装置、それを受け継いだデューラーは1525年の「測定法教則」でガラス板装置の製法を挿絵付きで説明している。ホルバインがガラス板装置を利用して多くの肖像画を描いたとも考えられている。
1532年の晩春か初夏の頃再びロンドン行っている(第2次イギリス時代)。1538年の一時期バーゼルに帰っているが、市長・市参事会の説得を振り切って、またロンドンに戻っている。1543年の秋、ロンドンで客死した。
「ゲオルク・ギーゼの肖像」「大使たち」、1536年頃からヘンリー8世の宮廷画家となり「ジェーン・シーモアの肖像」などを制作している。
トマス・モアは1529年に大法官に任命されたが、32年に辞任、35年に処刑された。1534年にヘンリー8世は国王至上法(首長令)を制定し英国教会を成立させた。皇帝の姉キャサリン・オブ・アラゴンと離婚し、アン・ブーリンと再婚するためでもあった。ヘンリー8世は穏健な宗教改革を進めようとしていた。これに関連して、フランス王フランソワ1世が若い大使たちを派遣した。
多くの肖像画を描くために、ホルバインは工夫していたらしい。第1次イギリス時代には念入りな習作を残しているが、第2次イギリス時代になると、習作は頭部の輪郭線を強調し、衣裳などはあっさりと描いている。アルベルティが考案した「ヴェール」、レオナルド・ダ・ヴィンチが推奨したガラス板装置、それを受け継いだデューラーは1525年の「測定法教則」でガラス板装置の製法を挿絵付きで説明している。ホルバインがガラス板装置を利用して多くの肖像画を描いたとも考えられている。