
ドゥッチョ
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ Duccio di Buoninsegna
1255頃〜1318/19
シエナ派の祖といわれる画家。
1240年代に生まれたチマブーエと1267年頃に生まれたジョット、1255年頃に生まれたドゥッチョはビザンティンの伝統、ピサ・ルッカの流れ、グイドの個性などを受け止め、新しくシエナ派を始めることになった。
盛期ルネサンスの資料を読むと、フィレンツェが強力な都市で、シエナ・ルッカは周辺の弱小都市のように思える。しかし13世紀後半になってフィレンツェが急速に発展したためで、フランス「街道の娘」と呼ばれていたシエナにはビザンティン、フランス・ゴシックなどの伝統が蓄積されていた。
ドゥッチョの生涯や作品にはかなりの数の史料が残されている。彼以前の画家についての史料はほとんど残っていない。時代、市民社会の成熟によるものとされている。
ドゥッチョについては1278年から1318年までの40年間に50を越える史料が残されている。作品についても「ルチェッライの聖母」「マエスタ」など主要作品に関する史料が残されている。
一方罰金が課せられたという史料も少なくない。当時の社会状況のなかで特に多かったのかどうかはわからない。画家として仕事をし、家族を養い、子供のうち3人が画家になっていることから市民としては平凡な生涯をおくったと思われる。
最初の仕事の記録は、貴重品箱の装飾で少額の支払いを受けたもの。またシエナ財務局の台帳表紙を15年以上の間に7回描いている。支払いはいつも10ソルディ、名声・技量とは関係なかったらしい。これらは現存しない。
1255頃〜1318/19
シエナ派の祖といわれる画家。
1240年代に生まれたチマブーエと1267年頃に生まれたジョット、1255年頃に生まれたドゥッチョはビザンティンの伝統、ピサ・ルッカの流れ、グイドの個性などを受け止め、新しくシエナ派を始めることになった。
盛期ルネサンスの資料を読むと、フィレンツェが強力な都市で、シエナ・ルッカは周辺の弱小都市のように思える。しかし13世紀後半になってフィレンツェが急速に発展したためで、フランス「街道の娘」と呼ばれていたシエナにはビザンティン、フランス・ゴシックなどの伝統が蓄積されていた。
ドゥッチョの生涯や作品にはかなりの数の史料が残されている。彼以前の画家についての史料はほとんど残っていない。時代、市民社会の成熟によるものとされている。
ドゥッチョについては1278年から1318年までの40年間に50を越える史料が残されている。作品についても「ルチェッライの聖母」「マエスタ」など主要作品に関する史料が残されている。
一方罰金が課せられたという史料も少なくない。当時の社会状況のなかで特に多かったのかどうかはわからない。画家として仕事をし、家族を養い、子供のうち3人が画家になっていることから市民としては平凡な生涯をおくったと思われる。
最初の仕事の記録は、貴重品箱の装飾で少額の支払いを受けたもの。またシエナ財務局の台帳表紙を15年以上の間に7回描いている。支払いはいつも10ソルディ、名声・技量とは関係なかったらしい。これらは現存しない。
最初期の作品は1280年頃の「クレヴォレの聖母」。グイドの影響が強いなかドゥッチョらしさが見られる作品。
1285年、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂ラウデージ同信会から大祭壇画制作の注文を受けた。現在ウフィツィ美術館にある「ルチェッライの聖母」。チマブーエの「サンタ・トリニタの聖母」、ジョットの「オニサンティの聖母」と比べても大きな作品。
この作品がシエナ派の黄金時代到来を告げている。と同時にチマブーエとのお互いに影響し合う関係も見えてくる。チマブーエ工房の「荘厳の聖母」(ルーヴル美術館)は「ルチェッライの聖母」が描かれた後に制作されている。以後シエナ派からの影響はフィレンツェの多くの画家に見られるようになる。
またドゥッチョは小祭壇画にも傑作を残している。「ベルンの聖母」「フランチェスコ会士の聖母」「ペルージャの聖母」。シエナ大聖堂後陣のステンドグラスの下絵や市庁舎「評議会の間」壁画をドゥッチョ作とする説もある。1302年には市の首脳「ノーヴェ」の礼拝堂を飾るマエスタ(現存せず)を制作している。
ドゥッチョの大作は大聖堂の主祭壇画「マエスタ」。1308年から11年の日付をもつ資料が残されている。中心となる大パネル、56枚のキリスト伝とマリア伝、30の小聖人像が描かれた大祭壇画。大聖堂に運ばれる際の様子も伝えられている。
この大パネルを見るとジョットの影響が見られる。聖母子を中心に聖人・天使が描かれているが、中心に向かって無理なく並んでいる。新しい影響を取り入れながら自らの作風を維持することでシエナ派が誕生した。
1318年か19年、妻と7人の子供を残して世を去った。
世界美術大全集10 ゴシック2 人物略歴
1285年、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂ラウデージ同信会から大祭壇画制作の注文を受けた。現在ウフィツィ美術館にある「ルチェッライの聖母」。チマブーエの「サンタ・トリニタの聖母」、ジョットの「オニサンティの聖母」と比べても大きな作品。
この作品がシエナ派の黄金時代到来を告げている。と同時にチマブーエとのお互いに影響し合う関係も見えてくる。チマブーエ工房の「荘厳の聖母」(ルーヴル美術館)は「ルチェッライの聖母」が描かれた後に制作されている。以後シエナ派からの影響はフィレンツェの多くの画家に見られるようになる。
またドゥッチョは小祭壇画にも傑作を残している。「ベルンの聖母」「フランチェスコ会士の聖母」「ペルージャの聖母」。シエナ大聖堂後陣のステンドグラスの下絵や市庁舎「評議会の間」壁画をドゥッチョ作とする説もある。1302年には市の首脳「ノーヴェ」の礼拝堂を飾るマエスタ(現存せず)を制作している。
ドゥッチョの大作は大聖堂の主祭壇画「マエスタ」。1308年から11年の日付をもつ資料が残されている。中心となる大パネル、56枚のキリスト伝とマリア伝、30の小聖人像が描かれた大祭壇画。大聖堂に運ばれる際の様子も伝えられている。
この大パネルを見るとジョットの影響が見られる。聖母子を中心に聖人・天使が描かれているが、中心に向かって無理なく並んでいる。新しい影響を取り入れながら自らの作風を維持することでシエナ派が誕生した。
1318年か19年、妻と7人の子供を残して世を去った。
世界美術大全集10 ゴシック2 人物略歴