
ドナテッロ
ドナテッロ(ドナート・ディ・バルディ 1386頃〜1466)
初期ルネサンス最大の彫刻家。
梳毛工ニッコロとオルサの子。父は1478年に起きたチオンピの乱の指導者の一人とされ、ドナテッロの作品には激烈なリアリズムと、孤高の精神性が混在している。初期の修業時代については不明。ギベルティの工房で働き、1406年頃にナンニ・ディ・バンコの「聖母被昇天(フィレンツェ大聖堂)」に関与したことで彫刻家としての活動を始めた。
1408〜09年にフィレンツェ大聖堂北側後陣のための大理石彫像「ダヴィデ」を制作、この像が小さかったため新たに制作した、テラコッタ彫像「ヨシュア」を後陣に設置、「ダヴィデ」は1416年に政庁「聴聞の間」に設置された。
この間、1408〜15年に大聖堂ファサードのための四福音書記者像の一体「聖ヨハネ」、1411〜13年頃にオルサンミケーレ聖堂の麻織物組合の守護聖人像「聖マルコ」を制作している。
1415〜16年の「聖ゲオルギウス(オルサンミケーレ聖堂 武具甲冑師組合)」、この彫像は頭部にヘルメット、右手に武器を持っていたとされる。身構えている聖ゲオルギウスは組合の守護聖人像だけでなく、共和国フィレンツェの精悍な自由戦士を表している。またこの彫像壁龕の下層に刻まれた「竜を退治する聖ゲオルギウス」の低浮彫は、線遠近法を用いて空間性を表現している。
初期ルネサンス最大の彫刻家。
梳毛工ニッコロとオルサの子。父は1478年に起きたチオンピの乱の指導者の一人とされ、ドナテッロの作品には激烈なリアリズムと、孤高の精神性が混在している。初期の修業時代については不明。ギベルティの工房で働き、1406年頃にナンニ・ディ・バンコの「聖母被昇天(フィレンツェ大聖堂)」に関与したことで彫刻家としての活動を始めた。
1408〜09年にフィレンツェ大聖堂北側後陣のための大理石彫像「ダヴィデ」を制作、この像が小さかったため新たに制作した、テラコッタ彫像「ヨシュア」を後陣に設置、「ダヴィデ」は1416年に政庁「聴聞の間」に設置された。
この間、1408〜15年に大聖堂ファサードのための四福音書記者像の一体「聖ヨハネ」、1411〜13年頃にオルサンミケーレ聖堂の麻織物組合の守護聖人像「聖マルコ」を制作している。
1415〜16年の「聖ゲオルギウス(オルサンミケーレ聖堂 武具甲冑師組合)」、この彫像は頭部にヘルメット、右手に武器を持っていたとされる。身構えている聖ゲオルギウスは組合の守護聖人像だけでなく、共和国フィレンツェの精悍な自由戦士を表している。またこの彫像壁龕の下層に刻まれた「竜を退治する聖ゲオルギウス」の低浮彫は、線遠近法を用いて空間性を表現している。
1420年代後半以降、ドナテッロは大聖堂鐘楼のための預言者像制作で彫刻表現の多様性を極めている。鐘楼を預言者像で飾るという企画は1415年に始まり1435年にかけて8体が制作された。うち5体にドナテッロが共作を含めて関与している。
1423〜25年 「エレミヤ」
1427〜35年 「ズッコーネ(ハバクク)」
1425年頃ドナテッロは若い彫刻家(ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ他)と共同の工房を構え、ドナテッロのローマ滞在期(1430〜33頃)を除き30年代後半にかけて大作を制作している。
1425〜27年 枢機卿バルダッサーレ・コッシャ(対立教皇ヨハネス23世)墓碑 など
コジモ・デ・メディチ時代に建築家として活躍するミケロッツォはドナテッロとは異なる独自の厳格様式を示している。
浮彫でも「キリストの昇天とペテロへの鍵の授与(1430年代前半)」には低浮彫の深化が見られる。浮彫の下方から昇天を見上げるような錯覚へと見る者を誘い、キリストの昇天と鍵の授与という2つの挿話を、特別な空間・光のなかで表現している。
ドナテッロ2 人物略歴
世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1
1423〜25年 「エレミヤ」
1427〜35年 「ズッコーネ(ハバクク)」
1425年頃ドナテッロは若い彫刻家(ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ他)と共同の工房を構え、ドナテッロのローマ滞在期(1430〜33頃)を除き30年代後半にかけて大作を制作している。
1425〜27年 枢機卿バルダッサーレ・コッシャ(対立教皇ヨハネス23世)墓碑 など
コジモ・デ・メディチ時代に建築家として活躍するミケロッツォはドナテッロとは異なる独自の厳格様式を示している。
浮彫でも「キリストの昇天とペテロへの鍵の授与(1430年代前半)」には低浮彫の深化が見られる。浮彫の下方から昇天を見上げるような錯覚へと見る者を誘い、キリストの昇天と鍵の授与という2つの挿話を、特別な空間・光のなかで表現している。
ドナテッロ2 人物略歴
世界美術大全集11 イタリア・ルネサンス1