
ディーリック・バウツ
ディーリック・バウツ Dieric Bouts
(1415頃〜1474)
ハールレム画派の創始者の一人と伝えられるが、1457年から没年まで南ネーデルラントの大学町ルーヴァンで活動した。
初期の作品とされる「聖母祭壇画(1445年頃)」はロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「聖母祭壇画(ミラフローレス祭壇画 1440年頃)」によっていることから、ロヒールの弟子だったと考えられている。しかし中央パネルの「聖母のエリザベツ訪問」や「キリストの降誕」の風景描写には独自のものがあり、風景描写に優れていると伝えられるアウワーテルからの影響を受けたとも考えられている。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴
(1415頃〜1474)
ハールレム画派の創始者の一人と伝えられるが、1457年から没年まで南ネーデルラントの大学町ルーヴァンで活動した。
初期の作品とされる「聖母祭壇画(1445年頃)」はロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「聖母祭壇画(ミラフローレス祭壇画 1440年頃)」によっていることから、ロヒールの弟子だったと考えられている。しかし中央パネルの「聖母のエリザベツ訪問」や「キリストの降誕」の風景描写には独自のものがあり、風景描写に優れていると伝えられるアウワーテルからの影響を受けたとも考えられている。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴
1464年から67年にかけて制作された代表作「最後の晩餐の祭壇画(ルーヴァン シント・ピーテル聖堂)」の室内表現にはヤンからの影響がみられる。翌年ルーヴァン市はバウツを「市の画家」に任命し、市庁舎のための「最後の審判」、「皇帝オットー3世の正義」などを制作している。彼の工房は二人の息子に受け継がれ、16世紀までバウツ様式の作品を制作した。
バウツはロヒールの厳粛な宗教劇を、民衆的な素朴な祈りに変え、「悲しみのキリスト」と「嘆きの聖母」の対幅は多くのコピーが伝えられている。小さな画面の感傷主義的な作品では成功したが、大きな物語場面の構想には苦労したらしい。「皇帝オットー3世の正義」などの人物は物語に関係なく、それぞれが内面に閉じこもっているように感じる。静的な表現の初期フランドル絵画で動的な物語場面を描くことは大きな課題となっていたらしい。ただファン・エイク兄弟のゲント祭壇画(1432年)ではそのような違和感は感じられない。
バウツはロヒールの厳粛な宗教劇を、民衆的な素朴な祈りに変え、「悲しみのキリスト」と「嘆きの聖母」の対幅は多くのコピーが伝えられている。小さな画面の感傷主義的な作品では成功したが、大きな物語場面の構想には苦労したらしい。「皇帝オットー3世の正義」などの人物は物語に関係なく、それぞれが内面に閉じこもっているように感じる。静的な表現の初期フランドル絵画で動的な物語場面を描くことは大きな課題となっていたらしい。ただファン・エイク兄弟のゲント祭壇画(1432年)ではそのような違和感は感じられない。